【魔女の宅急便 リバイバル上映】
- 鑑賞日 2026/06/24
- 公開年 2026
- 監督 宮崎駿
- 脚本 宮崎駿
- キャスト 高山みなみ、佐久間レイ、信沢三恵子、戸田恵子、山口勝平、関弘子、三浦浩一、加藤治子
- あらすじ 角野栄子の児童文学を原作に、スタジオジブリが描く長編劇場アニメーションです。魔女の血を引く13歳の女の子キキは、古いしきたりに則って相棒の黒猫ジジと共に修行の旅へ出ます。海の見える美しい街コリコにたどり着いたキキは、親切なパン屋のおソノの元に身を寄せ、空を飛ぶ魔法を使って「お届け屋さん」を始めます。地元の少年トンボや画学生のウルスラといった様々な人々との出会いや、時に壁にぶつかり悩みながらも、少女が自立し、少しずつ成長していく姿が温かく描かれています。
- ジャンル 日本アニメ,ドラマ,ファンタジー,アクション,ワクワク,スッキリ
- 鑑賞媒体 映画館 IMAX
- お気に入り ◎(×、△、〇、◎の四段階)
感想
『魔女の宅急便』のIMAXリバイバル上映!まず大前提として、僕自身は「ジブリを溜めて」います。コマーシャルが途中で挟まってしまう金曜ロードショーなんてもっての外、お家の貧弱なモニターや音響で作品を消費したくないのです。
一期一会の感動を最高の環境である劇場でじっくりと味わいたいがために、あえて幼少期以降、鑑賞を溜めております。もちろん、皆がこれをしてしまうとジブリの経営が破綻してしまうので、どうか皆様は繰り返し何度も観て下さいましm(__)m
今作の『魔女の宅急便』にいたっては、恐らく20年ぶり位の鑑賞でしょうか。今日まで溜めた甲斐があって、IMAXでの鑑賞は腰が抜けるほど感動しました。これを同じく20年以上溜めている、僕史上人生No.1アニメである『天空の城ラピュタ』を劇場で観られた日には、失禁してしまうのではないでしょうか。そもそも僕には、旅行が決まったらそれまで禁酒する、など溜め癖がありまして、映画も同様に「風と共に去りぬ」や「アラビアのロレンス」などの劇場で観れなかった名画も、リバイバル上映を虎視眈々と狙っております。
それゆえか、どうしても長文になってしまい恐縮ですが、どうぞ最後までお付き合い下さいませ。
デジタルを超えた「画角の計算」
今回のIMAXリバイバル上映を観てまず驚いたのは、巨大スクリーンに引き伸ばしても映像が抜群に綺麗だったことです。綺麗というよりは、現代風に「映える」と言った方が正しいかもしれません。これは4Kだ8Kだというデジタルな解像度の問題ではなく、画素自体は荒いのですが、計算されつくした画角によって、映し出されるあらゆる景色がため息の出る程に美しく仕上がっていました。
人は死にませんし、世界も滅びません。異世界でもなければ竜や剣も出てこないですし、権謀術中や恋愛の愛憎もない日常の物語なのに、こんなにも夢中でハラハラし、ワクワクできるなんて本当にすごいことだと思います。旅立⇒挫折⇒成長というシンプルなプロットでありながら、間に挟まれるイベントの一つひとつが普遍性抜群で、全編を通して全く飽きずに見続けられました。
映像に命を吹き込む実存観
改めてジブリの映像を大きなスクリーンで観て驚かされたのは、その「実存観」の凄さです。何をもってそこまで実存観と確かな重力をただの絵から感じたのか。
人物の動きで言えば、父親のメガネがずれた時のレンズの目が小さくなる描写や、キキを抱き上げる時の重さに驚いた四肢の踏ん張り具合、ラジオの操作一つで箒の操縦がぐらつく浮遊のあいまいさ、風の方向に対してたなびく髪の毛の一本一本と衣服のはためき、右へ左へと直線的に飛ぶような単純な動きではなく、気流そのものが目で見えるレベルで表現されている飛行の軌跡など、ありとあらゆる動きがリアルなだけでなく、アニメーションとして見事にデフォルメされています。ただ見たままをトレースするのではなく、全て計算され尽くしたあえての「嘘」が描かれていて、結果、生み出される説得力が半端ではありません。
背景で言えば、綿密なロケに基づく近景・中景・遠景の人間の目から見た時のリアルなスクロール、路地裏のひっそりとした空気感や手すりの位置の確かさ、生活に根付いた階段の位置など、ちゃんとそこに人が生活していることが伝わる動線が確保されており、大きいものはより大きく、小さいものはより小さく見えるよう工夫・配置された対称と画角など、ただ写真のように写実的に描くのではなく、物体の本質だけを力強く描き出す引き算の職人技が光っています。
巧妙にわざとパースを狂わせることによって引き出される流体の迫力も一級品で、これこそがまだAIには作ることができない、人間のセンスによって「わざとルールから嘘をつく」ことによって生み出された、超アナログ芸術の極みです。
効果音で言えば、箒の擦れる音や、鳥の羽ばたく音、高度によって変わる風の音など、小さな小さな音の積み重ねが、実際にキキが空を飛んでいるというリアリティを伝えてくれます。これこそが、僕が家のテレビでは見ずに、劇場での鑑賞を待ち望んでいる大きな理由の一つです。今回のIMAXでの素晴らしいサラウンド音響では、衣服の擦れる音一つ取りこぼすことなく、ジブリの音響効果さんがこだわり抜いて作り上げた職人芸を、余すことなく全身で堪能することができました。
音楽で言えば、今作も僕の中の「タイトルバックが完璧シリーズ」に堂々のランクイン!キキがラジオのスイッチを付けると流れてくる、荒井由実さんのあのポップな名曲。その曲調と共に、キキの未来へのワクワクを表すかのようにグッと上昇し、そこから右から左へ、過去から未来への移動を表す真横からの構図で「魔女の宅急便」のタイトルバック!し、し、しびれる~~‼
名匠久石譲さんが手がけたこの上ない美しい旋律も素晴らしく、初めて新しい街に着いた時のワクワクや、キキが不安になった時の不穏な感じ、あるいは疾走する爽快なアクションシーンなどが、見事に各場面に合わされていて、観客の心境と完璧にシンクロします。かと思えば、クライマックスの緊迫場面では一切の音を排するという大胆さ。「ラピュタ」でもフラップターが落ちていく超緊張する画面では音楽を排してましたよね。そこからの「あぁぁがれえぇぇぇ!」の叫びからの音楽再導入!た‥たまらん…!洋画での、絶え間なく流し続けるBGMと違い、この計算され尽くした緩急、入り抜きの使い方が最高です。
これらのコンマ1秒単位の絵コンテ全てに込められた超職人技によって、ジブリアニメは他と一線を画す実存観を与えてくれております。キキが本当に空を飛んでいる、ジジが本当に小走りに歩いている、オソノさんのお腹には本当に赤ちゃんが宿っている、トンボの自転車は本当に宙に浮いているという、まるで夢のような錯覚を与えてくれるのです。これこそがアニメーションでしか得られない魔法なのだと思いました。
映像だけでなく脚本におけるカタルシス
絵柄の実存観をもって、それだけでも神がかっているのですが、ジブリの凄いところは、そこに超綿密で計算され尽くした脚本がぶち込まれます。近年のジブリは難解さが目立ち、それはそれで見応えあって好きなのですが、この時代はエンタメ性が上回っていてそのカタルシスが半端じゃありません。
先輩魔女の降下していく先がムーランルージュ、ジジと話せなくなるのはキキが女性として成長期を迎えたから、イヤリングをしている女性は恋愛経験者、パンチラが多用されるのは少女時代の象徴、などなど皆さま沢山の深い考察があり、それらも魅力の一つではありますが、このブログではシンプルにプロットの楽しさを綴れればと思います。
田舎者のコンプレックスと大都会の洗礼
物語の冒頭から、お母さん魔女は古い壺ではなく、近代的な試験管を使って薬草を調合しています。しかしそれは何か物凄い魔法の薬などではなく、近所のおばあちゃんのリュウマチの薬です。おそらく街の薬局に行けば手軽に購入できる種類のものでしょう。この描写によって、魔法自体がもはや必要とされていない時代なのだという背景が、さりげなく伝わります。
そして旅立つキキに対して、父親は「辛かったらいつでも戻ってきていいからね」と言葉をかけますが、これは優しい父親である反面、旅立つ娘から子離れができていない父親にも見えます。こういった宮崎駿監督のちょっぴり意地悪なリアリティが垣間見えるところが、たまらなくいいですね。
友達たちもキキを羨み、素直に旅立ちを応援してくれます。この時点でのキキは村の英雄であり、嫌な言い方をすれば彼女たちよりカーストは上なのです。しかしながら、そうした誇りを胸にいざ辿り着いた「洗練された大都会」では、挨拶をしても完全に無視され、自分自身の服のダサさなどに激しく打ちのめされることになります。ここの描写に関しては、とてつもない共感性羞恥を感じました。
というのも、私事になってしまうのですが、幼少期にアルゼンチンのド田舎から日本へ転校することが決まった時、向こうの友達たちはキキの友人の様に、羨ましがりながら送り出してくれました。辿り着いた日本でのそびえ立つビル群に圧倒されながらも、アルゼンチンの小さな田舎町ではみんなが顔見知りですれ違うと挨拶するのが当たり前だったため、日本へ来ても同様に、すれ違う人みんなに「こんにちは!」と声をかけまくってしまったのです。
しかし、結果としてはキキ同様、ことごとく怪訝な顔で無視されてしまい、友達に「日本ではそんな見知らぬ人に挨拶しないよ」とたしなめられて大恥をかいた記憶があります。キキのコンプレックスは、まさに僕自身の追体験そのものだったのです。そんな中でも、戸惑いながらも「あ、ああ、そう‥良かったわね」と返事をしてくれる劇中の老婦人のような方が、当時の僕にも居てくれたのが唯一の救いでした(笑)
アドバンテージの無力化、あるいは上京の情緒
アルゼンチンのドラム缶風呂に入っていたような小僧が、急に近代日本に引っ越したように、キキの場合も、本来であれば実家からほど近い中規模の都市で修業をするはずでした。しかし、天候悪化というイレギュラーによって、自身の飛行距離では到底たどり着けないほどの大都会に貨物列車で行きついてしまいます。
農村や離島で育った世間知らずの若者が、段階を踏んで県庁所在地レベルの町で大学生活を始めるはずだったのに、一足飛びに東京の港区で誰の助けも無く一人暮らしを始めるようなものです。お母さん魔女でさえ、最終的に身を落ち着けた場所があののどかな田舎町なのですから、生まれはより郊外の村であったと予想できます。そんな素朴な両親と静かな田舎で育った女の子が、魑魅魍魎渦巻く伏魔殿たる東京のような大都会に幼い身一つで上京するのですから、いかに過酷なことであるか。劇中に出てくる先輩魔女のように、ムーランルージュのような歓楽街で占いで生計を立てなければいけないという描写からも、若者が都会で生活を維持することの大変さがリアルに伝わってくるのです。
さらに大都会では、「空を飛べる」という圧倒的なアドバンテージも、それがほぼ役に立たないという厳しい現実が突きつけられます。バスに轢かれそうになったり、警官に怒られたり、満足に飛行できない中で、トンボは自転車ですいすいと街並みをすり抜け、どころか手放しで運転したりもします。キキの箒の制御の未熟さとの対比が見事でありつつ、とても切なかったです。
お仕事としての宅配便にしても、一見すると目的地にひとっとびで効率よく運べるように見えますが、風雨には弱いし、重いものは運べないし、何より物量を裁けません。結局のところ、自動車での計画的な宅配システムにはどうしても勝てない訳です。田舎では羨望の眼差しを向けられていた魔法が、都会では全く役に立たないというこの対比は、僕のように地方から都会に上京した経験のある人間全員に深く刺さる、普遍的な描写でした。落ちこぼれ校のトップが進学校ではビリになってしまう切なさといいましょうか…
とはいえ、そういった冷酷な不安とは別に、見知らぬ土地にやってきた未来に向けた希望も、映画ではしっかりと描き出してくれます。初めての朝に目を覚ました場所が、実家の見慣れた部屋ではないという驚き、窓を開けると朝もやの中でこれからどんな一日が始まるのだろうという期待、ふと曲がった角で出会った美しい景色に感動するトキメキ、一人で風邪をひいてしまった時のどうしようもない心細さなどなど。初めて親元を離れ、自分の力だけで生活を始めた時の、全ての景色が新鮮でワクワクしたあの懐かしい気持ちを思い出しました。そういった言葉では簡単に表現できない繊細な気持ちを、見事なアニメーションで描くことができるのが、本当にジブリの凄いところです。
寄る辺なきアイデンティティの喪失
沢山の人達の温かい助けを借りて、キキは少しずつ街に馴染み成長していくのですが、トンボへの複雑な嫉逃心など様々な要因が絡み合い、ある日突然魔法が使えなくなってしまいます。
特に、盟友ジジの言葉が分からなくなってしまった時のあの悲しさは、猫飼いとして痛烈に刺さりました。言葉がわからないだけならまだしも、ジジの行動すべてが、「動物の猫」そのものになってしまうのです。黒目も細くなり、まさに獣。元々ディズニー映画のように完全に擬人化されたデフォルメキャラとしてジジは描かれていなかったのに、この圧倒的な変化の描写はすさまじいものです。唯一の生まれ故郷との繋がりだったジジとの意思疎通が断絶され、大都会での唯一の寄る辺だった魔法というアイデンティティも喪失し、ことごとくキキという存在そのものが否定されてしまいます。人生において、こういう泣きっ面に蜂という状況は本当にありますよねぇ…
そこで登場するウルスラというメンターは、本当に素晴らしいキャラクターでした。物作りやクリエイティブを少しでもかじった人間なら、誰しもが深く共感する存在であり、人は天から与えられたギフト(才能)だけでは決して人生を昇華できないという厳しい事実を突きつけてきます。
ピカソであれ、大谷翔平選手であれ、類まれなる天才的な才能を持っていたとしても、常にそれを自ら研磨し続けなければならない。どうやって空を飛び始めたか記憶にないくらい、飛ぶことが当たり前だったキキにとって、彼女の言葉はまさに天啓でした。天から与えられた才能を伸ばすために血の滲むような努力をしないといけないこと、ウルスラが言う「描いて描いて描きまくる」ということがいかに大事であるか。キキにとって、人が歩くのと同じくらい当たり前だった「空を飛ぶ」という行為が、ここで初めて「自分だけの才能」であると自認するのです。
あれだけ簡単に飛んでいけたウルスラの家も、バスを乗り継ぎ、ヒッチハイクをし、山道を歩いてやっとたどり着ける。空を飛べるという事が、どれだけ特別な事だったか、自分の足で歩いて初めて腑に落ちるこの描写が素晴らしいですね。
メンターが教えるクリエイターの業
ここで何より大事なのは、それをアドバイスするウルスラ自身が、ちゃんとその言葉を作品で体現している必要があるということです。口だけ立派なことを言う、場末の飲み屋のおっちゃんの武勇伝では絶対に駄目。映画では、それを見事にウルスラの描いたあの大きな絵一発で、彼女の才能の豊潤さを伝えてくれます。
『人間標本』や『パリに咲くエトワール』の感想でも述べているのですが、劇中で「凄い絵や歌を観客に伝える」のは演出として非常に難しいです。そのためには、用意周到な周りのリアクションや、その芸術の希少性を証明するためのドラマが絶対に必要になります。今作で言えば、ウルスラの絵画自体の圧倒的な迫力はもちろんのこと、絵の女性モデルが思い悩んでいるキキ自身であることや、絵と真剣に向き合うためにかなり街から遠い山小屋に籠っているということ、裁縫などの基礎教養がしっかりしていること、そして部屋中に置かれている道具の数からどれだけの凄まじい物量の絵を描いているかが一目でわかる点などが挙げられます。
それらの細かな描写の積み重ねがあるからこそ、彼女の言葉の説得力にしっかりとした重力が生じていました。ウルスラのように真剣に創作と向き合わず、ネームが没になるとすぐ「ぎゃあーもう嫌だー!飲みに行くぞー!」と逃げ回っていたから、僕は漫画家になれなかったのだろうなぁ(泣)
泥臭いカタルシスの果てに、戦友として歩み出す未来
その気づきを得てからのラストまでの一気呵成の流れは、もう本当に素晴らしい!トンボを助けるために、手に入れたデッキブラシに跨り、全集中をするキキ。あの無音の中の息を呑むシークエンスは、思わずこちらも客席で拳を握りしめて応援してしまう。魔法がなんとか発動したあとも、決して爽快にバッとお手軽に助ける訳ではありません。
飛行の軌跡はおぼつかず、デッキブラシはなかなか言うことを聞いてくれない。この泥臭い描写も見事で、表向きは華やかに見える天才たちであっても、決して順風満帆で居続けた人なんていないのだと、みんな見えない裏で泥臭い努力を続け、もがき足掻いているのだということを伝えてくれるのです。僕の好きなL’Arc-en-Cielの歌詞に、「一つ一つ歩を進め、振り向けば長い足跡、歪んでても真直ぐ」というフレーズがあるのですが、キキの姿はまさにその通り。
その必死な行く末に、見事トンボを救い出すことができるのですが、その時の劇中の群衆の地響きのような喝采が、まんまスクリーンの向こうにいる僕の感情とシンクロしました。脳内で「うおーー!キキよくやったぞー!頑張ったーー!」と激しく脳内拍手です。もう、なんという凄まじいカタルシスでしょうか。
その時キキの肩に飛び乗ったジジは、結局最後まで言葉を喋ることはなく、黒目も細い獣のままです。しかし、周囲の群衆からキキを守るかのように寄り添います。昔のようにお互い言葉を交わすことはできなくなっても、二人の確固たる絆は絶対に変わらないのです。うぅ、泣けるなぁ!思わず帰ってすぐうちの猫ちゃんにスリスリしました。嫌がられました…
そこからのエンドロールでは、キキはトンボの作った飛行機と楽しそうに並走しており、魔法は完全に元通りに戻ったみたいです。どころか、彼の飛行機を紐で引っ張り上げるほど魔力が上昇してるっぽい。トンボも空を飛ぶという長年の夢は叶いましたが、眼鏡をしている事から、現実的に考えると本格的なパイロットとしての採用はなかなか厳しいのではないでしょうか。彼も彼で、キキに劣らず多くの苦難や葛藤を内に持ち合わせた人間なのです。そういったシビアな側面をセリフで一切語ることなく、絵の力だけで魅せる演出の粋さよ。
この二人の行く末は、甘い恋人同士というよりも、お互いの弱さを知る、男女を越えた戦友のように感じました。
魔女という突拍子もないファンタジー設定でありながら、そこで伝えてくれるのは、誰しもの心に響く普遍的な成長物語です。子供も大人もとんでもない深度で楽しむことができる『魔女の宅急便』、本当にお見事でした。我慢して、劇場で観るために溜めておいて本当に良かった!
ラピュタ…ラピュタをIMAXで…どうか、どうかぁ~~‼
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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