【黒牢城】
- 鑑賞日 2026/06/19
- 公開年 2026
- 監督 黒沢清
- 脚本 黒沢清
- キャスト 本木雅弘、菅田将暉、吉高由里子、青木崇高、宮舘涼太、柄本佑、ユースケ・サンタマリア、吉原光夫、坂東龍汰、近藤芳正、矢柴俊博、木原勝利、河内大和、吉岡睦雄、上川周作、前田旺志郎、坂東新悟、荒川良々、渋川清彦、渡辺いっけい、オダギリジョー
- あらすじ 織田信長に反旗を翻し、有岡城に立てこもった荒木村重。織田軍に包囲され孤立無援となった城内で、少年が殺害される事件をはじめとする怪事件が続発します。城外には敵軍、城内には裏切り者がいるかもしれないという疑心暗鬼の状況下で、追い詰められた村重は、地下の牢に囚われている天才軍師・黒田官兵衛に協力を仰ぎ、事件の解決に挑みます。米澤穂信による同名の直木賞受賞ミステリー小説を映画化した作品です。
- ジャンル 日本映画 ミステリー 時代劇 ドラマ
- 鑑賞媒体 映画館
- お気に入り △(×、△、〇、◎の四段階)
感想
豪華キャストで彩られる『黒牢城』、黒沢監督も想定していなかったであろう「有岡城の惨劇」という歴史を全く知らないまま鑑賞するというお馬鹿さんがここに。
おかげさまで、終始物語の縦軸がわからず、何をミステリーとして解決したいのか見えず、ポカーン地獄と化し、全く感情移入できないまま映画が終わってしまいました。
絶対必要な事前知識「有岡城大虐殺」
AI解説=有岡城の歴史は、言葉を失うほど凄惨なものです。織田軍に囲まれた城主である荒木村重が城を脱出した後も、残された家臣や民たちは10ヶ月近くも籠城を続けました。しかし、食料が完全に底を突き、これ以上の抗戦は不可能だと判断した家臣たちは、織田信長側に降伏を申し出ます。信長は「有岡城に残された者たちの命を助けてほしければ、村重が今立てこもっている尼崎城と花隈城を明け渡せ」という条件を出したのですが、尼崎城にいる村重はこれを拒絶。さらに最悪なことに、説得に失敗した重臣たちまでもが自分の妻子を城に置いたまま全員逃亡してしまい、激怒した信長によって、城に残されていた一族や妻子、侍女、人質など数百人が極めて凄惨な方法で皆殺しにされてしまいました。また、村重が救援を期待していた毛利の援軍も、自国の防衛や味方の寝返り、海上ルートの封鎖が重なって、結局は来られなかったというのが史実なのです。
この歴史の知識を大前提に全てのプロットが構成されているので(劇中でこの顛末の説明は無し)、知らずに観た場合どういう心境になるのか、そういうレアな感想だと捉えてお読み下さいませ(泣)
時代劇ファンだけが持つ「脳内補完」のフィルター
物語はほぼすべて黒牢城の中だけでの会話劇で進むため、どれだけ民が虐殺されているとか、城を包囲されて兵站が無くなって餓死寸前なのか、などの緊迫感はあえて描かれておりません。なぜなら前途したように、この城の悲劇的な顛末を観客は「当然知っているだろう」前提で作られているからです。
恐らく時代劇ファンの方は、実際の映像が無くても歴史年表で、ある程度当時の悲劇を自動で脳内変換できるのではないでしょうか。それは知らなかった僕は、「ホロコーストを知らない状態で観る『アンネの日記』」、「第二次世界大戦で日本の敗戦を知らずに観る『パリに咲くエトワール』だったのです」。歴史的悲劇の顛末を知らないので、「屋根裏で隠れて暮らしてなんだか楽しそう」や「パリで画家目指して青春してるねぇ」といったような、トンチンカンな感想を抱いてしまうようなもの。その状態では、何を伝えたい話なのか、なんのミステリーを解こうとしているのかがさっぱり分からないのは当然といえます。
本筋が見えないミステリーの連続と「ポカーン」の結末
劇中のあらすじを簡単に振り返りますと、村重達は織田軍に取り囲まれている劣勢状態、そんな中、「裏切った家臣の息子が不審死する[ミステリー1]」、「敵将のクビが奇怪な顔に変わる[ミステリー2]」「織田家と繋がっていた間者が不審死する[ミステリー3]」と続きます。これらを幽閉した黒田官兵衛の力を借りて解決するという、いわゆる安楽椅子型探偵もの、羊たちの沈黙パターンの構成です。
背景にある「有岡城大虐殺の回避」という滅茶苦茶太い一本の幹がわかっていれば、途中のミステリーはそこに向けた布石だと今ならわかるのですが、その歴史を知らない僕は、眼の前に起きる小さな事件を都度解決しているだけにしか見えなくて、「本筋はどこ!?」と終始思ってしまったのです。それなのに、「毛利家に大将が直談判行けば大逆転あるで!」と、やっとこさメインストーリーが進んだと思った途端、バツンと終わってしまうもんだから、そりゃ心底ポカーンとしますよね。
本来落涙するべき死地への帰還
特に、毛利家への道中で家臣たちが一人ずつ「やはり有岡城に戻ります」と一人ずつ離脱していくシーンは、歴史を知った今なら、彼らが戻る先が死地であるという切なさを描いていたのだと分かります。あぁ、なんて感動的な場面だったのだ、と後悔するばかり。なんせ事の顛末を知らない僕は「そっか!殿が戻るまで頑張って城を守ってな!」程度の軽い気持ちで観ていたのてすから。
先日鑑賞した「エレノアってグレート」にて、ホロコースト生存者が当時の記憶を台詞だけで吐露する場面に激しく感動したように、今作も凄惨な現実をあえて画面に一切映さなかったことで、こちらの想像力で感動させる構成だったのに、歴史的事実を知らずに鑑賞するという事で、これほどの差が生まれるとは…
『長島一向一揆』のトラウマと、現代に響かない「民」の記号
物語の核心として、村重の妻の千代保が重要な役柄を演じております。彼女はかつて男女2万人が一斉に焼き殺された「長島一向一揆」の唯一の生き残りです。(情けないですがこの歴史的事実も年号の中の記号でしか知りません)その時の壮絶なトラウマから、彼女は「進めば極楽」という農民一揆の玉砕思想ではなく、「織田家が攻めてきても逃げても良いんだ、とにかく生きてほしい」というメッセージを民に教えたくて様々な仏の教えを画策するのです。
歴史を知った今なら当時の「死が誉れ」という価値観に一石を投じようとした千代保の行動に大変な説得力と感動を覚えるのですが、なかなかに、戦国時代における死のリアリティラインを肌感覚で理解することは本当に困難です。
個人的にはマーティン・スコセッシ監督の『沈黙ーサイレンスー』でキリシタンがエグい弾圧を受けていたり、小学生の時に道徳の授業で習った、一揆を起こした農民の子供が磔死罪になったりする「ベロ出しチョンマ」のような、直接的な映像の力がどうしても必要に感じます。本作のように長回しの台詞だけだと、吉高由里子さんの演技は素晴らしいのですが、いかんせん被害者の悲劇性が当事者感覚として想像できません。
一人の人間をしっかりドラマで育てて、結果として死ぬのなら胸に刺さりますが、「民」という大きな一括りで説明されても教科書で起きた1ページとしか捉えられないのです。近代の世界大戦や近所で起きた通り魔事件のように、自分の生活から地続きの恐怖ではなく、戦国時代は完全に断絶した世界なもので、どうしてもホロコースト生存者の長台詞とは、決定的に受け止める感度が違いました。役者さんの長台詞に頼り切るのではなく、何かしらの映像的演出が欲しかったように思います。想像力がないからだ、と言われてしまえばそれまでですが…
『木挽町の仇討ち』との比較から見る戦国時代の死生観
江戸時代でのミステリーを描いた『木挽町の仇討ち』が感情移入しやすかったのは、戦乱がない時代で、人一人の命が今の僕たちと比較的同じ重さで、殺人に置ける罪の重さも同様だったからかもしれません。
対して本作の戦国時代においては、幼い子供でさえも「死んで極楽に行きたいのになぜ自害させてくれないんだ!」というレベルの死生観ですから、人の生き死にが非常に軽く、それもミステリーにおいて緊迫感を減らす要因になってしまっていました。
信長が女中の首を容赦なく切り捨てる場面だけは具体的な回想シーンで描かれており、さすがに彼の残虐性を伝えるには台詞だけでは難しいという演出上の判断だったのかなと思います。それならば、予算の問題で難しかったのか、演出のためなのかわかりませんが、先述した他の重要な部分についてもこんな風に回想シーンがあれば、もっと物語に感情移入できたのだろうなと感じてしまいます。回想に頼らずセリフだけで描写するのは確かに映画として格式高く、格好はいいですけどね。
観客の教養に依存しない「映画としての太い幹」を求めて
もう少し劇中で民たちの暮らしや子供たちの笑い声、「もっと生きたい、死にたくない」という彼らの切実な感情が少しでもあれば、歴史の知識に関わらず、「何としてもこの城を守ってほしい」と強く願うことができたのではないかなと考えます。
更には大虐殺という歴史の顛末をラストに据えて話を構築しているため、本作は間がたっぷりと取られ、余白一杯で物語が進んでいきます。結末を知っている人にはそれが「破滅へのカウントダウン」としてヒリヒリとした緊張感に繋がるのでしょうが、それを知らない僕にとっては、もう退屈極まりないテンポに映ってしまうのです。
監督や制作陣が主題として据えたかった意図は別にあるのかもしれませんが、映画というエンターテインメントが、観客側の事前の歴史リテラシーや脳内補完にここまで大きく依存してしまうのは、やはりもったいないことだと思います。
素晴らしい演技や重厚なセリフ回しが揃っていただけに、映像としての直接的なアプローチがもう少しあれば、若い世代への時代劇の幅広い門戸になったのになぁ、と残念でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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