【映画レビュー】「エレノアってグレート」

映画

【エレノアってグレート】

  • 鑑賞日 2026/06/14
  • 公開年 2026
  • 監督 スカーレット・ヨハンソン
  • 脚本 トリー・ケイメン
  • キャスト ジューン・スキッブ、エリン・ケリーマン、ジェシカ・ヘクト、リタ・ゾーハー、キウェテル・イジョフォー
  • あらすじ ニューヨークに暮らす老婦人エレノアは、長年の親友ベッシーを亡くし、心に穴が空いたような日々を過ごしていました。そんなある日、彼女はお茶会に参加するつもりが、誤ってホロコースト生存者の自助グループの集まりに迷い込んでしまいます。その場で周囲に流されるまま、亡き親友ベッシーの激動の半生を「自分の体験」としてその場しのぎの嘘をついて話してしまいます。 その話に深く感銘を受けたジャーナリスト志望の学生ニナがエレノアに近づき、2人の間には年齢を超えた新たな友情が芽生えます。しかし、エレノアがついた小さな嘘は次第にひとり歩きを始め、やがて大騒動へと発展していくことになります。
  • ジャンル アメリカ映画 ドラマ ヒューマン
  • 鑑賞媒体 映画館
  • お気に入り 〇(×、△、〇、◎の四段階)

感想

スカーレット・ヨハンソン監督の長編デビュー作『エレノアってグレート』、鑑賞直後は自分の中でいくつかの作劇上の違和感と、それを遥かに凌駕するクライマックスの圧倒的なカタルシスが複雑に交錯する結果となりました。

全体としては非常に綺麗にまとまっている印象ですし、全年齢向けということもあって、ホロコーストにまつわる直接的で残酷な描写は一切登場しません。ドキュメンタリーのように、あえて凄惨な現場を反省の意味合いを込めて衝撃的に伝えるのではなく、現代の空気感をそのままに優しい人間ドラマへと落とし込んで伝えるアプローチは、今の若い世代にとっても極めて正しい選択だと感じられました。

しかし、その綺麗さの裏側には、ある種の作劇上の少々都合の良い展開も生じておりました。

優しい人間ドラマの裏に潜む、問題解決のショートカット

今作の難点は、あまりにも綺麗にまとまりすぎている分、物語としての感動の総量が少し薄まってしまっている点にあると思います。お年寄りと若者が世代を超えて心を通わせる友情物語というのは、それ自体が普遍的な感動を誘うものであるからこそ、これまでに無数の名作が生み出されてきた使い古された型でもあります。

だからこそ他作との差別化が難しく、今作ではそこに「ユダヤ人差別」や「ホロコースト生存者の記憶の借用」という非常に強力な設定を組み込んでいるものの、全体を包むマイルドなテイストが影響して、その歴史が持つ重さが深い感慨にまで結びつかないようになってしまっているのが惜しいように感じました。

その原因として最も大きいのは、各キャラクターのトラウマや確執の昇華が、脚本上どうしても作家にとって都合の良い展開として処理されているように感じられたことです。

例えば、主人公エレノアの嘘が露見する最も重要なシーンでは、テレビカメラが入り、多くのユダヤ人たちが集まった満を持した会場で、後を追ってきた娘が「お母さん何してるの!?」と全員の前で叫んでしまいます。常識的に考えれば、舞台裏でこっそり問い詰めればいいような場面のはずなのに、登場人物全員に一瞬で派手に嘘が伝わるような舞台立てを選ぶのは、ドラマのリアリティを少し損ねてしまっております。

同様の手法は、父と娘の確執の解消にも使われています。母親の死でこじれにこじれた親子の関係ですが、ジャーナリストである父親が生放送の場面で自らの心情を吐露することで、作品上の全ての登場人物へ一気に真実が伝わり、すべてが解決する流れとなっているのです。

これは僕が勝手に「米国大統領が演説するとすべて解決するシステム」と呼んでいる、問題の複雑さや社会背景を一足飛びにしてハッピーエンドへと導く、よくあるハリウッド的な手法そのものです。誰も異を唱えることができないホロコーストという凄まじい悲劇を扱いながら、この安易なドラマツルギーをそのまま採用してしまった点には、どうしても違和感が残ってしまいました。

戦時中の悲劇を描くという大義名分があるからこそ、劇映画としてのクオリティの追求が少し甘くなっても完成してしまうという、邦画の反戦映画でもよく見かける現象ですが、今回の「これくらいの重さに留めておこう」という判断基準には、少々残念な気持ちを抱かざるを得ませんでした。ただ、そのテイストの軽さには下記理由もありました。

映像を排した「引き算の演出」がもたらす本物の重力

それだけの演出や脚本に対する不満を抱えながらも、僕の中で最終的な映画への評価が「〇」へと一気に跳ね上がったのは、クライマックスに用意されていたシークエンスがあったからです。亡き大親友ベッシーが初めて打ち明けるホロコーストの壮絶な体験の場面、あそこの説得力は本当に圧倒的で、胸を激しく打ちました。

そこには一切の回想シーンもなければ、抽象的な映像の挿入もありません。ベッシーが、ただセリフと表情だけで、その壮絶な過去をこちら側にまっすぐに伝えてくるのです。映画におけるカメラ割りなどの高度なテクニックはもちろん計算されているのでしょうけれど、全ての映画的技法をあえて排して、語り部の言葉だけで訴えかけてくるそのシンプルで真摯なアプローチには、凄まじい熱量が宿っていました。

制作陣も、おそらくあの一点を最も伝えたくてこの映画を撮ったのでしょう。それまで「△」だった感想は、あの瞬間「〇」へと塗り替えられました。セリフの一つ一つが重く苦しく、彼女の顔に刻まれたしわの一つ一つが、これまでの後悔と人生の重みを物語っていたのです。

個人的に、かねてより漫画もゲームも映画も、読者が自らの頭の中で勝手に想像を広げる「小説」というメディアの破壊力にはどうしても敵わないと考えております。実際の記録映像を使って脳裏に焼き付けるNHKの『映像の世紀』のようなドキュメンタリーであれば、映像そのものが持つ圧倒的な地獄を伝える貴重な伝達手段として機能します。けれど、フィクションである今作において、あの独白シーンに余計な再現映像を入れず、観客の想像に委ねるセリフだけの演出にとどめたのは、全体の作品の重力のバランスを崩さないためにも大正解だったと思います。

さらに驚いたのは、ベッシーを演じたリタ・ゾーハーさん自身が、1944年にウクライナの強制収容所で生まれ、壁の隙間に隠されて生き延びた本物のホロコースト生存者であるという事実です。役者というのは、「自分が経験していないことも想像力で演じられるのか」それとも「経験したことでなければ演じられないのか」という問いを常々考えているのですが、今作においては、彼女の佇まいには技術を超えた存在そのもののリアリティが満ちていました。

もしあそこに少しでもエモーショナルな回想映像が重なっていたら、観客の想像力を狭め、作品は安易な「感動ポルノ」へと転落していたでしょう。あの数分間の引き算の演出こそが、映画全体の倫理的な一線を死守していたのです。

名付けられない愛のグラデーション

今作で長編初監督を務めたスカーレット・ヨハンソン自身もアシュケナジム・ユダヤ系のルーツを持ち、親族をワルシャワ・ゲットーで亡くしているという背景を知ると、この作品を制作した真摯な理由も見えてきます。

彼女が過去に出演した『ジョジョ・ラビット』でも、ナチス政権下でユダヤ人の少女を匿う母親を好演していましたが、あの作品もまた、悲劇をポップな風刺でコーティングするアプローチをとっていました。スカーレット・ヨハンソン監督が今作において全体をあえてマイルドに作ったのは、歴史の悲劇を安易にポルノ化しないための、彼女なりの紳士的で誠実なリスペクトの表明だったのではないでしょうか。

ただ、タイカ・ワイティティ監督のような圧倒的な映画術の完成度と比較してしまうと、やはり初監督ゆえの手腕の差が露呈してしまった印象は拭えません。だからこそ、あの独白の深度に合わせた、全編にわたってコミカルながらも、『ジョジョ・ラビット』の様な妥協のない深くて重いドラマも観てみたかったという、贅沢な望みも残ることになりました。

そしてもう一つ、僕がこの作品の中で深く考えさせられたのが、エレノアとベッシーの間にあった関係性のグラデーションです。作中には二人の関係が単なる友情を超えたものであることを示す、数々の繊細な匂わせが散りばめられていました。

例えば、学生であるニナがゲイであることをカミングアウトした際、エレノアは一切の拒否感を示さず、「自分をさらけ出せるのは素晴らしいことよ」と、どこか羨ましさを滲ませた表情を浮かべます。また、高齢になっても自身のセクシュアリティや生の渇望を率直に口にする描写や、コミュニティでの出会いに対して最後に語られる「恋をしたかったの」という言葉。

その告白は、単に「性的なパートナーが欲しかった」という意味を遥かに超えており、 それは、「自分という存在を、誰かとの深い結びつき(愛)によって満たしたかった」という、猛烈な生の渇望です。ベッシーを失ったことによる喪失感の深さは、彼女の人生においてベッシーこそがその役割を(友情という名目であれ何であれ)果たしていたことの裏返しです。

かつて同性愛や既存の枠組みから外れた愛が、激しく抑圧されていた時代を生き抜いてきたエレノアにとって、ベッシーとの70年に及ぶ深い絆は、名前のつかないジェンダーレスな愛そのものだったのかもしれません。「あまりに長く一緒に暮らしていると、相手との境界線がわからなくなるの」と言っていたように、あえて「恋愛」とラベリングしないグラデーションの描写だからこそ、二人の結びつきの深さがより多層的に胸に迫ってきました。

過去の声を現代のグラデーションへ繋ぐために

日本においても戦争経験者の方々が亡くなってゆき、当時の生の声を聴く機会がどんどん失われていく現代において、今作が試みた「生の声をそのまま残す」というアプローチには、非常に切実な意義を感じます。

そして、このホロコーストという歴史的な被害の記憶が、巡り巡って現在のイスラエルが抱える強固な防衛意識や、現在進行形の中東の緊迫した国際情勢、紛争へと地続きで繋がっているという事実を思うと、深く考えさせられずにはいられません。

歴史の背景はあまりにも複雑に絡み合っており、ある一点だけを捉えて簡単に「良いもの」「悪いもの」と断定することなど到底できません。そこにあるのは、無数のグラデーションなのだということを改めて再認識させられました。今作は脚本上の都合の良さという危うさを抱えつつも、リタ・ゾーハーさんの圧倒的な独白という一点によって、映画としての誠実さを奇跡的に保ち得ました。

粗削りではありますが、このルーツを持つスカーレット・ヨハンソン監督にしか描けない誠実な視点に触れられたことは大きな収穫でしたし、彼女の今後の監督作品が今からとても楽しみです。


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