【映画レビュー】「急に具合が悪くなる」

映画

【急に具合が悪くなる】

  • 鑑賞日 2026/06/27
  • 公開年 2026
  • 監督 濱口竜介
  • 脚本 濱口竜介、ルディムナ玲亜
  • キャスト ビルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代、ジャン=シャルル・クリシェ、マリー・ビュネル、ロマン・コタール、マリー・ドゥナルノー、ガブリエル・ダマニ、エロイーズ・ジャン、セフォラ・ポンディ、ハイディ・ベッカー=バベル
  • あらすじ フランス・パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長を務めるマリー=ルー・フォンテーヌ(ビルジニー・エフィラ)は、入居者が人間らしく過ごせるケアを理想に掲げながらも、慢性的な人手不足やスタッフからの理解不足に頭を悩ませていました。 そんなある日、彼女はがんの闘病中でありながら独創的な演劇を作り続ける日本人の舞台演出家・森崎真理(岡本多緒)と出会います。同じ名前の響きを持つという偶然から親交を深め、真理が手がける舞台に勇気をもらうマリー=ルーでしたが、あるとき真理の具合が急激に悪化してしまいます。真理の病が進行していくなかで、2人は言葉や文化の壁を越え、互いの魂を通わせ合う深い関係性を築いていきます。
  • ジャンル 日本映画,フランス映画,ドイツ映画,ベルギー映画,ドラマ,ヒューマン,考えさせられる,泣ける
  • 鑑賞媒体 映画館
  • お気に入り ◎(×、△、〇、◎の四段階)

感想

とにかく言語化がめちゃくちゃ難しい作品です。あらゆる場面で超緻密な計算がなされているのだろうけれど、こちらがそれを知覚できないほどのハイレベルな次元で配置されているので、最後には自分でも訳がわからない涙が流れてしまいました。

大抵の映画であれば、自分の中で分析して、考察して、こういう理由で泣いたんだな、と納得ができるものですが、今作ばかりは訳のわからない感情が溢れてきて、本当に自然に涙がこぼれ落ちたのです。それは嗚咽するだとか、号泣するだとか、そういうある意味あざとい激しい感情ではなくて、本当に気づいたら涙が頬を伝っていたという感覚でした。

監督の恐るべきセンスと計算による、自然で優しい感動

この不思議な感覚は、ピクサーの『ソウルフル・ワールド』を観た時にとても近いかもしれません。感動的な劇伴を使ったり、ド派手な絵面を用意したりして、暴力的に観客を反射として泣かせることは可能ですが、今作の様な感動のさせ方というのは、あらゆる脚本の計算と演出のブラッシュアップ、環境の構築、そして何より監督のセンスがないと不可能な仕上がりだと思います。

この様な涙の流し方をさせてくれる映画には、めったに出会えません。なんて豊潤で素晴らしい人間賛歌なのだろうと、胸がいっぱいになりました。

機知に富んだ会話と響き合う二人の言語

本当にブログ記事にしにくい映画なのですが、なんとか無学なりに一つずつ要素を紐解いていければと思います。

真っ先に印象的だったのは、台詞の教養深さです。映画『サンキューチャック』でもそうでしたが、とにかく全編にわたって台詞が思慮深く、機知に富んでいて、なおかつユーモラスです。そのため、主演女性二人の会話をいつまでも聞いていたくなる。劇中で真里がマリーに対して「もっとあなたと話がしたい」と言うように、僕自身も、もっともっと二人の話が聞きたいと感じました。

一晩でも二晩でも、寝ずに彼女たちの話を聞き続けられるほどに内容が理知的で豊かで、そして、その心地よさがイコール「真里に死んでほしくない」と観客が心から思うことに直結していくのです。二人が初めて出会い、夜道を話しながら歩くのですが、両者の超インテリジェンスな会話内容も相まって、川沿いの景色の非現実感がすごい。

途中小さなお祭りの場面に出くわし、皆思い思いに楽しく踊っております。余命短い真理とは対照的に生のエネルギーに満ち満ちた世界です。その日初めて知り合ってまだ1時間もたっていないであろう二人ですが、すでに魂の共鳴のようなものを感じている真理は「今日はまだ帰りたくないな」と伝えます。陳腐なセリフに聞こえますが、これだけの景色で発せられるこの言葉には、真理の「今を逃すと二度と訪れないであろうこの一瞬」を抱きとめていたいという切実な想いに、ものすごい説得力を感じました。

いつ急に具合が悪くなるかもわからない恐怖と共に、この夢のような場所から一人暗い部屋に帰るなんてどれだけの絶望を感じることでしょう。いかに、人は、人と言葉を交わすことがかけがえのない事なのか伝えてくれます。

その会話テキストが持つ引力と同時に、フランス語と日本語が終始入り混じるというのも、196分という長尺をまったく飽きずに観られた大きな理由だと思いました。他の言語とは違い、フランス語は僕にとって、まるで歌というか詩というか、流れるようなイントネーションで物凄く耳心地がいいのです。パピプペポの破裂音が柔らかく感じられて、京言葉の様にはんなりとしつつ、それなのにその言葉の裏側に秘められているのはウィットでユーモラスな皮肉がたっぷりで、いつまでも聞いていられます。

この作中で入り乱れる日本語とフランス語によって、両国の境界線があいまいになり、それがこの作品の根底にある「内も外も混ぜ合う」という一貫したテーマに見事に繋がっていくのです。基本的には二人は相手の言葉で話すのですが、本当に伝えたい大切な話はあえて母国語で伝えるというのも、非常に示唆に富んでいて素晴らしい演出だと思いました。僕もスペイン語を少しかじっていますが、ヒアリングが出来たとしても、自分が本当に感情を込めて伝えたい時にはぐっと詰まることがあるので、彼女たちの会話方法には非常に共感できました。

よくリベラル界隈が怒られる「経済的に恵まれた層のインテリが上から目線で講釈垂れてるだけ」という視点に関しても、己でその構造自体を揶揄していたりと、抜け目はありません。

資本主義という巨大な怪物に挑む大いなるミステリー

脚本部分につきましては、 まず、「余命わずかながん患者と介護施設長の交流」と聞くと、よくあるハートフルストーリーなのだろうかと予想しがちですが、今作は意外や意外、がっつりとしたミステリー要素を含んでおります。それも、犯人は誰だ、というような分かりやすいミステリーではなくて、もっと大きな「この世界をどう攻略するか」という問いに満ちた壮大な命を賭けたミステリーなのです。

今僕たちが生きているこの資本主義社会の仕組みを、真里がホワイトボードを使ってものすごく分かりやすく解説してくれるシークエンスがあるのですが、この場面がたまらなく面白いと同時に、たまらなく恐ろしいと感じました。今まで僕たちが見えないふりをしてきた、膨れ上がる資本主義の歪さを、ストレートに目の前へ突き付けてくるのです。

皆が心のどこかで、この肥大する欲望は止めなくちゃいけないと分かっていながら、どうすることもできずにいる。僕の狭い認識範囲で知る限りでは、その世界からバランスよく脱却しようとしている著名人は東出昌大さんでしょうか。彼は文明社会に半身を置きながら、なるべく自給自足を目指して山中で狩猟生活をされています。でもあれは自分には真似できないし、彼もその生活をするに至ったのには様々な経緯がありました。

失われた30年を経て、ちらほらと行き過ぎた資本主義への警告が一般市民レベルまで降りてきた気はしますが、まだまだその域に自分を置けるほどに、今の便利さを手放せないのが本音です。この映画は、まさにそのジレンマを見事に視覚化してくれます。「この構造をどう攻略するか」という大いなるミステリーが主軸にあるからこそ、196分という時間を忘れて夢中で全編を観ることができます。これもまた、外部から搾取するばかりを止め、「内と外を混ぜ合う」テーマです。

マリの勤める施設もその構造にハマっており、問題の解決策を提案すると、その提案がまた別の問題を産んでしまいます。その負のサイクルを、彼女は「まるで傷が癒え続ける怪物と戦い続けているよう」と比喩しますが、 いかにこの怪物と対峙するのか、もちろんそこには簡単な解決策などありませんし、「長期戦」で挑むしか無いのです。

でも、その長期戦への道筋を、監督は一つ一つ丁寧に提示し、196分にわたって描き続けます。理想論に逃げることをせず、かといってお涙頂戴な悲劇にもしないまま、ロジカルに、しかし優しく、過酷な現実に立ち向かう二人の女性に寄り添い続けるのです。本当に、これを見ていると、自分はなんと怠惰な毎日を送っているのかと、反省するばかり。

今の日本においては、若者と年配の方への分断がどんどん進んでいるように感じられます。飲みの場で若者の話を聞いていても、上の世代へのヘイトが随分と溜まっている。お給料のかなりの割合を社会保険料で取られる現状を見れば、その気持ちも分からないでもないですが、根本は、社会の構造が主な原因です。資本主義という構造自体が、外部を食い尽くして進化する特性である以上、少子高齢化は避けられない必然なのです。

ユマニチュードが提示する構造への攻略法

作中に登場する介護方法「※ユマニチュード」は、そんな行き詰まった世界に一石を投じます。実際には様々な障壁があり、実現はかなり難しく、恵まれた階級の人だけが受けられる介護方法だとは思うのですが、それでも二人が挑んだ「impossibleをpossibleにする」戦いは、資本主義の構造を変えるための一つの攻略法として機能しています。一見すると患者に寄り添うだけの介護法に見えますが、その実、介護者の心をも癒してくれる仕組みになっているのです。

※「ユマニチュードとはフランスで生まれた認知症ケアの技法。最大の特徴は「あなたは私にとって大切な人です」というポジティブなメッセージを、「見る」「話す」「触れる」「立つ」という4つの基本動作を通じて相手に伝え、「人間らしさ」を取り戻すサポートをすることです。

資金不足や人員不足により、患者に思うようなケアができないことは、結果として介護者の心をも摩耗させてしまいます。患者とともに、もたれ合い、目をつぶり、つかの間の安寧を共有すること。マッサージするだけでなく、時にはしてもらうこと。相手を物ではなく「見る、話す、触る、立つ」の四本柱でコミュニケーションをすること。この双方向のコミュニケーションこそが、外部を喰らい続ける資本主義とは完全に対を成す構造でした。

世界中の介護現場がこれを実践できればどれだけ素晴らしいかと思いますが、現実にはそれを行うためのお金も人員も圧倒的に足りません。だからこそ、資本主義に食いつぶされる外部である「僕たち」が、まずこの構造を知り、変えようと願うこと、願いが行動になり、やがて大きなうねりとなること。

大なり小なり誰もが心の中で感じている「ちょっと今の世界は異常だよな」という警告を、小さな行動に移していくこと。この映画は、がん患者と介護の現場というミクロな舞台を通して、世界を覆うマクロに対し、壮大なメッセージを投げかけていると感じました。監督、化け物すぎる!

映画館の暗闇と同期する白昼夢の時間

演出面に関しては、前述したように、おそらく僕ごときには知覚できないような細かい計算が、無数に散りばめられているのだと思います。そんな中でも特に印象深く感じたのは、暗闇のシーンの使い方でした。

二人の内面を象徴するかのように、劇中ではトンネルも多用されています。夜勤中に施設内を歩く場面も、懐中電灯一つで進んでいくのですが、それがマリの施設運用に関する悩みと、真里の身に迫りくる死への恐怖を「暗中模索」しているさまとして、とても分かりやすく伝わってきます。

しかしながら、その暗闇の使い方は単なる苦難の意味合いだけでなく、二人の神秘的な時間を表現する手段としても、ものすごく美しく描かれているのです。知り合ったばかりの二人であるにもかかわらず、プライバシーも含めた超濃密な会話を続けたおかげで、二人の間では時間経過が麻痺していきます。

劇中で真里が「あなたが劇を見に来てくれたの、今日の夕方よ。信じられる?」と言うように、観客である僕たちも、その白昼夢のような時間に魅せられて完全に時間感覚が麻痺してしまうのです。劇中の病院の暗がりと、僕たちが座っている映画館の暗闇が完全にリンクして、二人の時間を忘れさせるほどの濃密な体験を、肌感覚で追体験できる素晴らしい演出になっていました。

あの光と闇の使い方と時間軸の描き方は実に見事であり、「確かに、二人が知り合ったのって今日の話だよな」と、心底驚かされました。学校終わりの夜道で友達と夢中でだべり合った恋の話、深夜バイト終わりの駐車場で話し込んだ将来の夢の話など、自分の過去にも、確かに時間を超越したかけがえのない空間があったよな、と思い出させてくれる場面でした。

劇中の暗闇が劇場と同期する感覚があるからこそ、これは間違いなく、配信ではなく劇場で観たほうがよい映画だと強く感じます。尿意さえ襲ってこなければ…

また、余命短い真里が院内を案内される中で、下の世話をしてもらう患者の手伝いをするシーンがありますが、そこも実に興味深いです。それをつぶさに手伝うにつれて、自分にはもう訪れることのない「老後」という姿への羨望を感じると同時に、少し意地悪な見方をすれば、ここまで老いる前にこの世を去ることができるという「安堵」の感情もまた描かれているように見え、その心理描写の複雑さに唸らされました。

老人たちはパイロットだったり、孫に囲まれてたりと、今まで生きてきた膨大な人生の思い出があります。その豊潤な生きてきた軌跡を、真理は辿ることが出来ないという暗喩が、非常に切なかった。

妥協のない描写が宿す劇中劇の説得力

さらに、劇中でとても大事な意味合いを持つ劇中劇の描写も凄まじかったです。映画において、登場人物が何かのイベントに感銘を受けるシーンというのは、総じて周りのリアクションだけで誤魔化して描きがちです。

例えば、仕事の出来る先輩がいたとして、具体的な仕事内容には触れないまま「海外支社に栄転だ」と周囲が騒いだり、何をプレゼンしているのかよく分からないけれどなんだか凄そうな会議をしている風だったりと、設定などはフワッとさせておいて、ただ周りに「すごい!」と言わせればオッケーというような、ある種の逃げの演出が多く見られます。

しかし、今作は真里が演出する劇を、ちゃんと本物の「すごい劇」として真っ向から描き切っているのです。正直僕は演劇空間が苦手で、しかも前衛芸術となると手に負えないのですが、それでも演出も小道具もしっかりとしていて、テーマもわかりやすくストレートに伝わってきました。そしてそれが、クライマックスの見事な伏線になっているのです。

よく分からんけれどすごい「風」の劇ではなく、しっかりと体重の乗った「精神病患者を取り扱った」本物の劇を作り上げたからこそ、その妥協のない描写のおかげで、最後に描かれる「内と外が交わる」壮大な流れに対して、圧倒的な説得力が生まれました。精神病患者と健康な人間の差は何か、重厚な主題に対して、自閉症の孫智樹を持つ吾郎というキャラクターを配したのも、その説得力をより強固なものにしている一因だと感じます。彼が唐突に舞台に乱入してしまう描写も両者の境界線を曖昧にする一つの描き方ですし、舞台進行を妨げる「急に具合が悪くなる」側面の一つでもあります。

ただこの一回目の劇は、智樹が乱入する事を加味した上で作られた演出なので、それすらも作為的に取ろうと思えば取れます。だからこそクライマックスでの劇は、その作為を越えて、全てが融合したとんでもない芸術に仕上がるという、真理の昇華に繋がっておりました。このシーンが本当にすごかった…!

悪あがき続ける死生観の先にある理想郷

真里の実家がある京都で、「綺麗な朝日を見て終わる」というような安易な結末にしなかった点も、本当に素晴らしかったです。そこから先へ踏み込み、彼女の死への恐怖と葛藤をしっかりと描き切っていました。

二人でカップラーメンのお湯を入れて待つ「2分30秒」。この短い時間の間に二人はとても大事な話をします。始めの「コーヒーが出来るまでの間」と同じく、観客は「数分が滅茶苦茶長い」という時間の狂いを体感できる素晴らしいシーンなのですが、あの時は時間が足りなかったのに対して、今回は話終わってもまだアラームはなりませんでした。

それは真理の余命の短さを表す間でもあるように思えるし、心の内が決まった余白にも見ました。その後に真理が発する言葉。僕達が心の中でちょびっとだけ疑問に思った「カップラーメンって3分じゃないの?」に対する答えとして「私、固めが好きなの」とボソッとつぶやく。マリーも「私も」と返す。二人の生き急いできた今までを表すかのような「2分30秒」という時間を、こんな形で表現できるなんて、もうね、「人間ってなんて情緒が豊かなんだろう!」と感慨を覚えずにはいられませんでした。

そんな監督だからこそ、真理が抱く「何も残せなくて悔しい」という強い悔恨を、綺麗な景色だけで有耶無耶に誤魔化して終わらせません。そこからさらに物語は続くし、その為の196分です。真理とマリという人間描写を丁寧に丁寧に積み重ね、深掘りし、開示し、そして最後にようやく昇華させるために。

今になって思い返してみると、僕が映画館で涙を流したのは、彼女がその悔しさから解き放たれた瞬間だったのかもしれません。「あなたは、ちゃんと残していたじゃないか」と。

地震大国日本の死生観と里心

僕自身も40代になり、身内の死も経験したことで、以前よりも死というものが身近になってきている感覚があります。自分にはまだまだ死は遠くにあるものだと本能的には捉えていますが、それでも死は誰にでも必ず訪れるもの。

思えば日本人というのは、急に訪れる地震という天災によって、一瞬で死ぬかもしれないという運命を、頭のどこかで無意識に感じながら生きている稀有な民族な気がします。僕も生まれてから今日まで大震災が何度となく訪れるのを経験し、それによって亡くなっていく膨大な数の人々も見てきました。

自分が今こうして生きているのは、決して自身の努力や知恵によるものではなく、ただ、たまたまその場にいなかったからに過ぎないのだという事実を、幼少期より痛いほど知っているのです。この日本人が持つ特殊な死生観は、なるほど、クリエイティブの領域に落とし込んだとき、今作のような唯一無二の名作に転じるのだなと、すとん、と腑に落ちました。

そんな過酷な土地にうんざりしながらも、劇中でパリから日本の田舎町へと場面が移ったとき、得も言えぬ深い安心感を覚えました。DNAに刻み込まれた郷土心というのはいかんともしがたく、やはり最後に死ぬのはこの国がいいな、と本能的に思わされてしまうのです。しかし、そのような心情を抱かせつつも、真里が終の場所に選んだ道が、単なる穏やかな安寧などではなく、「一緒に悪あがきしようよ」という言葉だった結果だという事に、本当に激しく心を揺さぶられ、感動しました。

「悪あがきしようよ」と決めた先で

健常者、認知症、自閉症、若者、老人、男、女、白人、黒人、アジア人、介護する者、される者、保守、リベラル、あらゆる属性の人々がお互いを思いやって足のマッサージを施し、境界線が溶け合っていくあの描写は、まさに一つの理想郷でした。

なぜ溶け合う描写が互いの足をマッサージしあう事なのかは、人類と言うのは二足歩行を始めた事に起因する、からだと捉えました。この施設は他の施設と違い、患者をなるべく歩かせます。寝たきりにさせた方が要介護度も上がり補助金を貰いやすいし、転倒の危険も減り、家族からのクレームも無くなる上に、スタッフの負担も激減する、という「楽さ」があるのに、です。

それらのリスクをすべて背負ってでも、人間らしく命を燃やし尽くせるよう、患者に歩いてもらう。なので、みんなで足をマッサージしあうし、言葉を交わせない認知症患者も自然と相手の足を揉む。歩く事が人が人たらしめることだと本能でわかっているかのように。そしてそれは大きな視点に映せば、この膨れ上がる資本主義から立ち止まり、自分の足で、まず歩いてみようよ、というメッセージでした。

素足で芝生の上で歩き、転倒のリスクを恐れず目は前を向けると、その先には木々のざわめきや木漏れ日、流れる風の心地よさなど、「この世界は素晴らしい」ことに気付けるかもしれない。

「分断の時代」というフレーズは、もう何度も口にされていて、うんざりするほど嫌になる言葉ではありますが、そんな時代において、今作はまた一つ、僕たちに希望をくれるかけがえのない映画になりました。

また、3時間16分の間、全集中が必要な作品を叩きつけるという、タイパ・コスパをうたわれるこの時代において真っ向から喧嘩を売る監督の気概に感銘を受けました。僕もこのブログでは、タイパとは真逆の長文で喧嘩を売りましょうかね!

間違いなく2026年のベスト級になる傑作だと思います。本当に観れて良かった!


最後までお読みいただき、ありがとうございました。
皆さんの感想も、ぜひお聞かせください!

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