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【映画レビュー】「時には懺悔を」

映画

【「お前ならどうするんだよ」と突きつけられる映画】

  • 鑑賞日 2026/09/01
  • 公開年 2026
  • 監督 中島哲也
  • 脚本 中島哲也、門間宣裕
  • キャスト 西島秀俊、満島ひかり、黒木華、宮藤官九郎、毎熊克哉、鈴木仁、烏森まど、山﨑七海、唯野未歩子、野呂佳代、長井短、しんすけ、山下舜太、諸角優空、柴咲コウ、塚本晋也、片岡鶴太郎、佐藤二朗、役所広司
  • あらすじ 探偵の佐竹と助手の聡子は、ある殺人事件の真相を追う過程で、9年前の誘拐事件で連れ去られた子ども「新(あらた)」の存在に行き当たる。重い障がいを抱えながらも過酷な運命を生き延びてきた新。家族から目を背けた男、娘に捨てられた女、子を生きる糧にした男、産んだ子を愛せない女など、それぞれ過去に深い傷を抱えた大人たちが、懸命に生きるひとつの小さな命との出会いを通して再生していく姿を描く。
  • ジャンル 日本映画,ドラマ,サスペンス,ヒューマン,考えさせられる
  • 鑑賞媒体 映画館
  • お気に入り ◎(×、△、〇、◎の四段階)

感想

映画『時には懺悔を』を観てきました。本当に素晴らしい作品でしたし、よくぞこの内容を撮り切ったと思います。

ただ、全登場人物の属性がグラデーションで描かれており善悪が決まっていないため、恐らく鑑賞した多くの方がそうだと思うのですが、正解がなさ過ぎる題材なので、感想の書きようがありません。それでも絞り出すとしたら、この映画は自分の写し鏡だと思いました。

※重いテーマを扱っているため、僕の無知や言葉選びの拙さから、不快な思いをさせてしまう部分があるかもしれません。その点、何卒ご容赦ください。

自分自身の写し鏡と、洗い出される己のエゴ

我が家は紆余曲折があって、残念ながら子宝には恵まれませんでした。子供という、人生で最上の幸福を得られなかったという悲しさがある反面、それに比例して背負う沢山の苦労、特に今作で描かれる障がいを持つ子供の子育てなどにおいては、その負担が無いことへの安堵感をどうしても覚えてしまいます。物凄い幸福を諦める代わりに、物凄い心労からは離れられる。自分たちの心配だけに全リソースを割ける人生というのは、虚無感と安心感の等価交換なのかな、と自分自身の落とし所をつけております。

だからといって、子育てに無責任でいて良いわけはなく、子供がいないからこそ、いる人より尚更社会に責任を果たさないといけないのではないかという罪悪感もあったりして、その様な答えのない自問自答をグルグルグルと考えさせられました。

少子化を筆頭とした、沢山の子供に関する社会課題に対して、自分はどこまでできるのか。ボランティアや子育て支援をするとして、プライベートの時間をどこまで割くのか。寄付や援助をするとして、年収の何割まで支払うべきなのか。自分の幸せの追求と、社会への奉仕の天秤はどこまで傾けるべきか。出来るだけ沢山の子供たちに幸せになって欲しいとは思うけれど、美味しいものも食べたいですし、旅行にだって行きたいですし、自分の猫も最大限幸せにしたいです。

そういった己のエゴがボロボロと洗い出される映画です。普段蓋をしている部分、目を背けている部分、それら全ての恥部が、しんすけ君という存在を通してさらけ出されます。「お前だったらどうすんだよ」と突き付けられるのです。子供がいる家庭、いない家庭、それぞれがそれぞれの見たくない自分と、否が応でも対峙しなくちゃいけません。

特に無宗教が多数派の日本において、教義という逃げ道がない環境は、孤立化を際立たせる側面があります。僕も決まった宗教は持っていませんが、絶望の淵に立たされた時に「神頼み」が出来ない状況は相当に過酷でしょう。米本の「神はいると思うか」の問いに、堂々と「いるに決まってんじゃん!」と断言できる人は、今作の様な環境を、ありのままに受け入れる強さがあるかもしれません。

善悪の二元論では割り切れない登場人物たち

見たくない自分と向き合うのは僕たちだけでなく、劇中の登場人物全員が、しんすけ君との出会いで同じように苦悩し、絶望し、葛藤します。スクリーンの向こう側とこちら側で、終始、全員が自問自答し続けるのです。辛い…

あるいは「あの子は産まれてこない方が幸せでした」と吐露し、あるいは「彼を一人にしたくない」と叫びます。単純な善悪の二元論はそこには存在せず、捨てようとした者にも理由はあるし、救おうとした者も無責任だったりします。あれだけしんすけ君に感情移入し、助けたがっていた聡子も、ついぞ自分が引き取るとは言いませんでした。血の繋がっていない明野がしんすけ君と9年間一緒に生活した事実を観ているにも関わらず、血が繋がっているというだけの母親である民恵に、しんすけ君の保護を一方的に求めるという身勝手さ。それは聡子自身が実の娘から距離を置かれている事への逃避です。

このように複雑な人間描写を、全俳優陣がとてつもない熱量で演じています。大根演技が一人もいない、物凄い演技合戦でした。冒頭の西島秀俊さんのドアップからもうやられましたね。一目で尋常ではない過去を表情だけで伝えてきます。俳優さんって本当にすごい職業だなと、改めて感服いたしました。

逃げ道を塞ぐ圧倒的な現実と、突きつけられる自分の弱さ

そして最も衝撃だったのは、作中に登場する全ての子供たちが、人形やCGではなく、実在の子供たちが演じているという事でした。それはもちろん重大な障がいを患っている子供たちも、です。

どれだけ制作陣は親御さん達と協議を重ねてきたのでしょう。障がい児御本人も御両親も、リスクだらけの出演です。シンプルに身体的な危険もありますし、差別や偏見などに晒される恐怖もあります。作中で民恵が、自分の子供を誰にも見られたくなくて、「気温が高いのに分厚いおくるみで無理やり包んでいた」ように、何万人という好奇の目に我が子を見られたくないという思いもあるかと思います。それらのあらゆるリスクを背負ってまでも出演を決意してくださった俳優の方々と、それを可能にした制作陣を、心から尊敬いたします。

彼らの出演のおかげで、結果、この映画にもたらされたものは、圧倒的な現実でした。この時代、精巧なCGやパペットで表現する事も可能でしょうし、それなら誰も傷つかず危険もなく八方ヨシです。しかしその代償として、僕たちに「あぁ、この子達は実際にいないんだよね、良かった」という逃げ道を与えてしまいます。それは普段僕たちが常々障がい児達の存在から目を逸らし、逃げ続けた事の延長から何も変わりません。

今作は彼らが出演してくれた事により、その逃げ道をガッツリと無慈悲に塞いでおります。大人の俳優陣と同じく、子供たちも全員実在する子達です。その圧倒的なリアルが、この映画の実存性を爆上げしているのですね。僕たちはスクリーンが突きつける現実から逃げられないし、目を背けられません。大変に失礼で申し訳ない事だとわかっていても、彼らの姿を、異質だと感じてしまう、ウッと引いてしまう、そんな自分の醜悪な差別心が浮き彫りになってしまいます。

佐竹が障がい児である息子の眼差しからずっと逃げ続けたように、僕も逃げたくなってしまう。どうすればこの問題は解決するのだ、という答えのない巨大すぎる壁からも、現実逃避したくなります。

存在を肯定する子供たちの笑顔と希望

では、やはり「産まれてこない方が幸せだった」のでしょうか。この映画は基本的にリアリズムを追求し絶望を容赦なく描いております。ですが、ただセンセーショナルな問題を突き付けて無責任に放り投げるのではなく、しっかりとほのかな希望も描いているのです。この映画を作る上で、障がいを持つ子供達の存在を否定されないよう、彼らの子育てはやっぱり無理筋なんだと観客が思ってしまわないよう、残酷な問題提起もしつつ、その先の寄り添い方もちゃんと愛を持って描いているのです。

その希望の表現とは、子役達の笑顔でした。屈託なく笑う子供たち。それは、「産まれてはいけなかった」という言葉を真正面から否定できる、凄まじいエネルギーでした。単純接触効果ではないですが、あまりにも日常で障がいをもつ子供と接する機会が少ないため、正直に言うと、瞬間的にどうしても異質に感じてしまう部分はまだあります。でも、その先に芽生える「かわいいかも」という気持ち。きっと彼らと沢山触れ合えば触れ合うほどこの気持ちが大きくなってくれるのでは、という希望。

もちろん当事者ではない無責任極まりない「かわいい」ですが、しかも超上から目線ですが、もっともっと自然に会える機会が必要なこと、蓋をしないこと、いない事にしないこと、その結果が「かわいい」に繋がってくれるのであれば、この映画を制作した価値は計り知れないものになっていると思いました。もちろんそんなものは表層的な事で、子無しが何言ってんだ、と、偽善と理想論ばかりで自分で書いてて嫌になりますけれど、このようにグルグルグルと考えが止まらない映画です。

中島哲也監督の演出と、90年代の空気感

演出面で言えば、とにかく俳優陣のアップが多いです。シンプルに90年代の背景を見せなくて済むテクニカルな部分もあると思いますが、圧倒的な感情表現が物理的に叩きつけられます。それは大人達だけでなく、子役さん達も同様に、画面一杯に広がる表情のおかげで、今なにを感じたのか、推し量る事ができます。これは監督が俳優さん達に絶大な信頼を置いていないと出来ない演出法ですよね。その関係性が素晴らしかったです。

あとは、とにかくずーっと飲んだり食べたりしています。本来食事場面は、生のエネルギーに満ち満ちているはずなのですが、今作、全ての食事が不味そうです。食べれば食べるほど逆に死に近付いて行っている様に見えるし、登場人物たちの内面をそのまま表すかのように、身体に悪そうなものばかりを、機械的に口いっぱいに頬張ります。それは障がいをもつ子供たちが鼻から直接胃にチューブをつなぎ、栄養を取り込んでいる事の対比に見えました。ただし、ヨガの達人の片岡鶴太郎さんのチョコパフェだけはすごく美味しそうなのには笑いました。普段ああいうもの全く食べてなさそうですよね。

音に関する設定も見事です。盗聴をする時のノイズの細かさ、息遣いのリズム、後ろの小さく流れている洗濯機の音。それは目がほとんど見えないしんすけ君の日常を、ほんのわずかでも追体験できるとんでもない演出です。佐竹が終始来ている革ジャンも、ずーーっと「ミチ…ミチ…ギュギュ…」と本来カットできる音を際立たせて流しています。それは彼がかかえる呪いの様なトラウマと後悔が、常に身体中を縛り付けているメタファーに見えました。

また、90年代という、スマホもGPSなどがない時代のおかげで探偵シークエンスに無理が生じないのも良かったです。同時に、SNSがなく周囲に助けを呼べない障がい児家庭の孤立感も、大変なリアリティを演出されております。逆に昭和が色濃く残る当時は、まだ地域の助け合いが強く、現在のほうがもっともっと孤立化しているのかもしれません。

あとはお酒ですね。佐竹がずーっとウイスキーを生で飲みまくるのですが、若い頃飲み屋でバイトしていた頃、一気飲みを沢山して吐きまくっていた記憶が蘇りました。うぅ…喉の奥が酸っぱい(泣)彼の内臓がどうなっているのか、想像するだけで恐ろしいです。酒、タバコ、ジャンク飯、彼らがそれを接種すればするほど、どうしようもない己の過去から逃げたくて仕方ない対比に見えました。

日本映画最高峰のスタッフと俳優陣

正直、疲れた仕事終わりに、お金を払って、なんでこんな自己嫌悪になる映画を観ているんだろうと思いました。もっと楽しくてスッキリする映画は沢山あるだろうに。でも、もう一人の自分が、観なきゃ駄目だ!と叫ぶのです。

そして、観て良かった。しんすけ君を始めとする、沢山の子供達の笑顔が見られて本当に良かった。

「なんでこんなしんどい映画を観なきゃならんのだ」と同じように、「なんでこんなしんどい映画を作らなきゃならんのだ」「なんでこんなしんどい映画を演じなきゃならんのだ」と制作陣も思った事でしょう。でも観客を含め、この映画に携わった全ての人々がそのしんどさを乗り越えて、「でも伝えなあかんでしょ!」と奮起したのだと思います。そのしんどさなんて、当事者である子供たちに比べたら、数百万分の一ですらないのだから。

この映画をもって知れた事、考えられた事、その機会を与えてくれた制作陣と俳優の皆様に心からの感謝を申し上げます。世界でもなかなか類を見ない、素晴らしい映画でした。


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