偶像解体に向き合うアーサーのドラマ
- 鑑賞日 2024/10/17
- 公開年 2024
- 監督 トッド・フィリップス
- 脚本 トッド・フィリップス、スコット・シルヴァ
- キャスト ホアキン・フェニックス、レディー・ガガ、ブレンダン・グリーソン、キャサリン・キーナー、ザジー・ビーツ、リー・ギル、ハリー・ローティー、スティーブ・クーガン、ジェイコブ・ロフランド、ケン・レオン、シャロン・ワシントン、ビル・スミトロビッチ、コナー・ストーリー
- あらすじ アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、アーカム精神病院に収容され、精神的な治療を受けている。その中で、精神科医のリー(レディー・ガガ)と出会い、彼女との関係が深まる。リーはアーサーにとっての新たな支えとなり、彼の心の中で新たな変化が起きる。しかし、リーの存在がアーサーの精神状態にどのような影響を与えるのか、物語は予測できない展開を見せる。
- ジャンル アメリカ映画,クライム,ドラマ,考えさせられる
- 鑑賞媒体 映画館
- お気に入り ◎(×、△、〇、◎の四段階)
感想
※ブログを始めた2025年より前の鑑賞体験である為に、リアルタイムで観た映画に比べて感想が短めになっております。二回目を鑑賞する事があれば、詳細を追記できればと思います。
今作の評価に関してはちょっと特殊です。偶然ですが、今まで経験した事ない初めての鑑賞体験をしてしまったからです。
と言いますのも、映画館で鑑賞中に突然火災報知器が鳴り響いて、急いで避難する、という驚くべき出来事が起きました。実際には誤作動だったため無事に席へ戻りましたが、上映再開の調整が難しかったらしく、ちょうど劇中後半の、アーサーが刑務官から虐待を受ける目を背けたくなるシーンが、無音で5-6回程繰り返し流れる事になったのです。
壊れた世界の様に何度も何度もそのシーンが暗い劇場内に無音で繰り返され、やがてスクリーンの向こう側とこちら側の境界線が曖昧になっていく特殊な感覚…今まで数多くの映画を見てきましたが、こんな感覚は初めてでした。レイトショーで観客が数人しかいなかったことも影響したと思いますが、大げさですけど、これは映画なのか、アーサーの中に巻き込まれてしまったのか、わからなくなる位没入感がブーストする珍事件だったのです。
途中で返金手続きを行って帰られる方もいましたが、この状況はまさにアーサーが抱える悪夢の追体験そのものであり、結果として僕にとっては神懸かった映画体験になりました。本来であれば音楽で誤魔化されるはずの暴力や悲哀が、無音で繰り返されることによって、その生々しさと滑稽さだけが浮き彫りになる。これは監督すら意図しなかった、エンタメの完全な剥奪という本作のテーマを物理的に突きつけられた瞬間でした。本当に凄かったです。
火災報知器が鳴り響いた瞬間に、煙に巻き込まれないよう急いで出口に向かいましたが、振り返ると正常性バイアスが働いたのか、ポカンと座ったままのお客さんが多数居られた事も、まさにこの映画が描く群集心理を表している様で、大変に興味深い体験となりました。
現実と虚構が交差する解体の物語
さて、その様な特殊な体験を抜きにして純粋な映画の感想としましては、僕はジョーカーというコンテンツ自体にそこまで強い思い入れを持っていません。そのため、今作に対して巻き起こっていた、「こんな弱々しいジョーカーは見たくなかった」という感想を抱くことはなく、前作も含めて、あくまでアーサーという一人の人間そのものが織りなすドラマとして作品を観ていました。
本作は、終始あらゆる場面でジョーカーは虚構であって存在しないこと、そしてアーサーという男は悪のカリスマではないというテーマを徹底して描いています。前作が妄想で現実を飲み込む高揚感だったのに対し、今作は現実に引きずり戻される絶望を描いています。
前作が与えた社会的影響が大きすぎたからこそ、この続編を作らざるを得なかったのだと感じますし、フィクションである映画に対して、続編でこのような答えを提示しなければいけない監督の立場を思うと大変気の毒です。だけども、これからの時代はそこも含めた創作物の作り方をしなければいけないのだと勉強になりました。
生み出したキャラクターが独り歩きをして社会を壊しかねない時、作り手は自らの手でその偶像を解体するという責任を果たさなければならないという、このメタ的な苦悩は凄まじい時代だな、と思います。トイストーリーしかり、エヴァンゲリオンしかり、もはや影響力が巨大すぎるコンテンツは、キャラそのものが受肉し、その行く末を描かないと物語が終わらないという、ストーリー主体から推し活主体の脚本構造に変遷しているのが面白いです。
ジョーカーという巨大コンテンツから降りるためには
前作から引き続き、アーサーがどれだけ「ジョーカーではなく僕を見てほしい」「僕の話を聞いてほしい」と慟哭しても、物語の中の群衆もスクリーンの外にいる観客も、皆が求めている存在は「カリスマであるジョーカー」でした。
アーサーがどれだけありのままの自分を晒しても、世間は彼自身を見ておらず、ただただジョーカーというコンテンツを消費したいだけ。このアーサーという男の透明化によって、今作のジョーカーは期待外れであるとして大きな酷評を受ける結果になりましたが、しかし、現実の観客が期待外れだと怒る姿そのものが、劇中でアーサーを裏切る民衆の姿と重なり合っています。皮肉にも、その現象によって映画自体が高次元で完成してしまったのですね。
娯楽映画としてのカタルシスを徹底的に排除した姿勢こそが、アーサーという一人の人間に対する監督なりの誠実さだったのかもしれません。
狂乱の輪の外側で見届けた人生
よくぞここまで徹底的にアーサーという人物に特化して作ってくれたと感じています。ジョーカーというコンテンツに憧れを抱いていない僕は、その狂乱の輪の外側で、アーサーという一人の男が辿った一生を切なく眺めていました。
もちろん、過去作で悪のカリスマとして君臨したジョーカーの凄まじい魅力は、間違いなく本物です。理不尽な世の中を力づくで打破していくジョーカーの姿に救われた方も沢山居られることでしょう。
だからこそ、あの美しく力強いカリスマ性を愛した人たちが、今作の展開に戸惑い拒絶してしまうのは当然の反応です。それほどまでにジョーカーという存在は魅力的であり、絶対的悪でありながら多くの人々にとって特別な光であり続けたのだと思います。
今作は数あるジョーカー映画の一節として、また別途、今後ジョーカーファンが熱狂できる作品が作られるといいなと思います。
イラストのタイムラプスです↓
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
皆さんの感想も、ぜひお聞かせください!


上映後ロビー