【死ねばいいのに】
- 鑑賞日 2026/07/05
- 公開年 2026
- 監督 金井純一
- 脚本 喜安浩平
- キャスト 奈緒、伊東蒼、前原滉、髙橋ひかる、草川拓弥、浅野竣哉、カトウシンスケ、木原勝利、日高七海、田畑智子、平原テツ
- あらすじ 鹿島亜佐美という女性が何者かに殺害されました。犯人の正体も動機も不明な中、生前の亜佐美と交流のあった人々の元を、彼女について尋ね歩く謎めいた女性・渡来映子が訪れます。複数の証言が重なるにつれ、亜佐美という人物の輪郭と、彼女と映子の関係性が次第に浮かび上がっていく、京極夏彦の同名小説を原作とした作品です。
- ジャンル 日本映画,,ミステリー,ヒューマン,ドラマ
- 鑑賞媒体 映画館
- お気に入り △(×、△、〇、◎の四段階)
感想
映画『死ねばいいのに』。今作は決して中身のない駄作というわけではありません。暗闇の草原風景といった内面描写のセンスや、スクリーン全体を包み込んでいる気だるい空気感、そして何よりも伊東蒼さんの素晴らしい演技によってもたらされる深い思考の余白など、魅力的な要素は間違いなく存在していました。
が、総評としては△となってしまった要因を、自分なりに掘り下げたいと思います。描こうとしているテーマは自分なりに咀嚼したつもりですが、それを伝えるための制作法や演出のアプローチが、どうしても僕の好みには合わなかったのです。
原作のボリュームと舞台劇的な構成の難しさ
原作小説は未読です。原作者の京極夏彦さんといえば、鈍器ともいえるレベルの分厚い本で、物語がその膨大なページ数分にわたる会話劇なのだとすれば、きっと人間の心理もかなり突き詰められ、相当に深く描かれているのだろうなと想像が膨らみます。
しかしそうなると、今作の90分という限られた上映時間の中でその深さを再現するのは、至難の業でしょう。先日鑑賞した『急に具合が悪くなる』では、3時間という長尺をたっぷりとかけて二人のドラマを徹底的に突き詰めまくったからこそ、こちらの琴線に触れるものが仕上がりました。それに比べて今作は、限られた短い時間の中で複数の登場人物たちの内面をそれぞれ掘り下げていかなければならないという、高いハードルがあります。
では、その短時間でどうすれば描写が可能なのかというと、対話中の景色を急に暗闇の草原に変えてみたり、役者さんの演技力に全てを委ねることでトライされてました。なので、全体がどうしても舞台劇のような構成にならざるを得ない。何もない草原に椅子や机をぽつんと置いて、それを心象風景として演出するようなアプローチが、劇場スクリーンではなく、舞台演劇の小劇場に居る気分にさせる。そして、僕はそういった作りが非常に苦手なのです。身内が舞台役者をしているがために、何度も観てきた経験からの、ちょっとした舞台演劇アレルギーかもしれません。
「がなり」の演出がもたらす会話劇のノイズ
肝心の対話劇も、演出による余白や湾曲表現を用いた示唆に富んだテキストというよりも、舞台演劇に近い役者さんの演技力に全ツッパする直情的な会話構成でした。舞台特有の心理描写や状況も全てセリフで説明するあの構成です。
本来であれば分厚い小説の中でじっくりと展開されるはずの会話量を大きく割愛しなければならないため、今作では強引に二人の対話を「怒鳴り」や「がなり」によって強制的に終わらせる手法が取られています。『急に具合が悪くなる』のように、インテリジェンスで豊潤な会話として紡がれていれば良かったのですが、今作では「俺とあさみは神聖な関係だったんだぁ!!」とか「あいつのせいで私の人生は滅茶苦茶よぉ!!」といった、感情をストレートにぶつけすぎる怒鳴りで自らの弱点をさらけ出させ、そこへ渡来映子(奈緒)がドヤ顔で「じゃあ死ねばいいのに」と言い放つという展開が繰り返されます。
会話劇を主体にして作られている映画であるにもかかわらず、その肝心の会話テキストが、とても幼稚なものに見えてしまった。人間の業ややるせなさ、あるいは生きていく上での繊細なグラデーションを丁寧に描くというよりは、最終的に渡来に「死ねばいいのに」という決め台詞を言わせたいがために、逆算してディスカッションの場を構築しているのが透けて見えてしまったのです。
これが生で目の前で繰り広げられている舞台演劇でしたら、自分も演出の一部であるために成り立つ会話劇だと思うのですが、スクリーンを挟んで俯瞰の立場で鑑賞していている状態では、ちょっと醒めてしまう。舞台っぽい小道具の演出や、怒鳴り合いの会話劇、そして役者さんの演技に頼り切った構成で、なんとか原作の密度を再現しようとした苦労は伝わってくるのですが、逆にそこがノイズになってしまった印象です。
以前『宝島』を観たときにも感じた事ですが、人間が感情を吐露する瞬間に「怒鳴らせる」というのは、本当に楽な演出なのだと思います。しかし、観客には一発で感情が伝わりやすい反面、どうしても表面的なレイヤーまでしか表現することができません。僕が名作だと思う映画の多くは、どれも静かに感情を表現していました。パッと思い浮かぶところで言えば、『万引き家族』の安藤サクラさんや、『市子』の杉咲花さんなどでしょうか。
慟哭したいほどの激しい感情を、あえて静かに、だけれども強く強くこちらに伝えてくれるからこそ、深い感動が生まれる。個人的に今作は全体的にそういった表現の深みが感じられませんでした。弁護士との対話シーンにしても、新たな気づきを与えてくれるような深い禅問答ではなく、「どうして人を殺したらいけないんですかぁ?」とイキっている中学生に対して、大人が丁寧に立法や道徳を説いているような今更感を覚えてしまう。そのため、どうしても「なんだかすごく深いことを描いている(風)」「なんだか役者さんがすごい演技をしてる(風)」という、表層的な見え方に留まってしまいました。
記号的なキャラクターと観客への解釈の委ね方
映画の人物描写において、「神は細部に宿る」とはよく言いますが、今作に出てくるキャラクターたちは全員がとても記号的に感じられてしまいました。不倫をする男、イジメをする先輩、DVをする彼氏、機能不全な母親、そしてレッテルを貼る弁護士と、それぞれが物語を動かすための舞台装置としての属性を綺麗に与えられすぎていて、それをただ演じている感が否めなかったのです。
よしんば、その配役自体が僕らの持っている先入観の表れとして、あえて計算されたものだったとしましょう。しかしながら、主役である二人、亜佐美と渡来に関しても、観客がすんなりと感情移入できるような描写は特に用意されておらず、その多くはこちらの想像に委ねる形になっております。その構成が「幸せというのは本人にしかわからないものだ」という作品なりのアンサーなのかもしれませんが、それにしてもあまりにも観客に解釈を放り投げすぎな感じがしてしまい、そのぶん投げられた余白を「すごく深い」と捉えられる人には素晴らしい映画なのだと思いますが、僕にはやはり「すごく深い(風)」に見えてしまったのですね。
今作は同脚本家の方が手がけた『桐島、部活やめるってよ』と非常によく似た構造になっていると感じます。桐島も、今作の亜佐美と同じように、謎の人物として周囲の登場人物たちを激しく翻弄していきました。ただ、あちらが映画として傑作たり得たのは、「桐島が不在であること」そのものが物語の主題として見事に機能していたからです。それに対して今回の『死ねばいいのに』に関しては、亜佐美不在、そして渡来の不透明さという設定が、物語の面白さへと上手く昇華されているようには感じられませんでした。
ミステリーにするのであれば犯人探しのプロセスをもっと面白くするべきですし、ホラーにするのであれば亜佐美の得体の知れなさを軸にして作っていくべきですし、しかしそれらを選ばず、「幸せとは」という、表現するのが一番難しい難題に挑んだのであれば、観客に解釈の大部分をぶん投げたり、役者さんに怒鳴り合いの演技をさせたりするのではなく、奇をてらわずに真正面からその主題を伝えて欲しかったなと感じてしまいます。
細部のノイズとラストシーンに覚えた違和感
主人公の渡来はあんなにも世を拗ねたようなキャラクターとして描かれているのに、カップラーメンをすする時に、麺を箸で口に送りながらとても上品に食べるのですね。実写版『幽☆遊☆白書』で浦飯幽助役を演じていた北村匠海さんが、全く同じ食べ方をしていて意図せず育ちの良さがでちゃってたり、タバコを吸わない役者さんが、どうしても吸い慣れていない感を隠せない現象です。僕も含め、周りのヤンキー友達を振り返ってみても、あんなに上品なラーメンのすすり方をできる人はなかなかおりません。
あの描写が「渡来が元々ものすごく育ちの良いお嬢様」という過去を示すための伏線なのだとは思いますが、しかし、いかんせん作品全体が観客への解釈をぶん投げまくっている作風ですから、単なる演技指導不足なのかな?とも、「見えてしまう」のですね。これらの演出も、想像を膨らませる余白、ではなく、リアリティを下げたノイズになってしまった一つです。
奈緒さんを真正面からのアップで捉えた長回しラストシーンについても、どこか「涙待ち」が透けて見えてしまうあざとい感覚を覚えてしまった。前途した安藤サクラさんや杉咲花さんの正面アップの長回しシーンと比べると、どうしても響き方の重さが伝わって来ず、しかし、これは決して役者さんの力量不足などではなく、そこに至るまでの脚本や演出の積み重ねの問題だと思います。あのラストシーンにするにしては、テーマが抽象的すぎるのです。
安藤サクラさんの場合は「血の繋がらない家族であっても心から愛していたのに、それを完全に否定されてしまったこと」、杉咲花さんの場合は「障害で寝たきりになってしまった妹の息を、自らの手で止める決意をしたこと」など、正面アップでスクリーンを越えた僕達に、明確な文脈と明確な感情が提示されているからこそ、深く感動します。
今作においては、せっかく奈緒さんが渾身の表情で涙を一筋流すという、素晴らしい魂の演技を披露してくれているにもかかわらず、そこに至るまでの解釈の選択肢が多岐に渡りすぎてます。それは映画としての豊かな「余韻」や「余白」というよりは、「あとはそちらで好きに想像して補完してください!」という、一種の逃げのようにも映ってしまったのです。
伊東蒼が魅せた圧倒的なトリックスターとしての輝き
そんな中でも、それらを完全に凌駕するほどの凄みを見せてくれたのが伊東蒼さんでした。彼女の演じる亜佐美の、コロコロと表情や雰囲気が変わる不安定な佇まいは、まさに『桐島』の如く、周囲の人々を翻弄していくカリスマ性を見事に表現されていました。「確かにぃ、幸せなまま死ねばいぃんだねぇ」と呟いた瞬間の、あの底が一切見えない真っ黒な瞳には、心底ゾッとさせられる恐怖がありました。
「明らかに私より不幸なはずなのに、なぜこんなにも心から幸せだと言い切れるんだ!」と、渡来が憤る心境が、彼女の演技を見ていると本当によく理解できます。亜佐美という得体の知れなさを全面に押し出したホラー路線として描かれていたならば、もっと楽しめたかもしれません。それくらい、彼女の持つ真っ黒な目の演技には圧倒的な見応えがありました。
渡来も物語の途中で「私が殺したのは本当に人間だったんですかね?」というセリフを口にするので、一瞬そちらのサイコホラー的な路線へシフトしていくのかと期待が高まったのですが、最終的には中途半端なヒューマニズムに着地してしまったのがやはり消化不良でしたね。
彼女が口にした「私今本当に幸せ」という言葉が、心からの本心だったのか、それともあまりにも過酷すぎる現実からの逃避として思い込んでいるだけだったのか。そして、僕たち観客が「きっと現実逃避に違いない」などと思ってしまうこと自体が、実は他人に勝手なレッテルを貼って決めつけていることと同義なのではないか。そういった、人間のエゴに関する思考を巡らせてくれる部分の余白については、本当に素晴らしいものがあったと思います。
亜佐美はある種の狂言回しというか、トリックスターであり、渡来を映し出す鏡としての役割を担っているため、彼女自身の過去や属性が謎に包まれたままであっても、物語の構造上は十分に成り立ちます。だからこそ、対峙する渡来のキャラクターまでもが謎に包まれたまま進んでしまうと、ドラマとしての脳内処理が飽和状態になってしまう。
僕の読解力不足もあると思いますが、「変なヤツ」と「変なヤツ」がぶつかり合っているだけでは、投げかけられた問題提起がどこにも着地せず、中空に漂ったままになってしまう。「変なヤツ」と「まともなヤツ」がいて初めて、それを地続きの問題としてリアルに捉えることができるのではないかな。どうしてもツッコミが不在のまま、お互いにボケつづけているシュールなコントをずっと見せられているような、そんな奇妙な印象が残ってしまいました。
表現方法と好みの不一致
映画が投げかけようとしていた全体のテーマについて、自分なりに受け止められているつもりですが、そのメッセージを伝えるための表現技法や、キャラクターの動かし方、そして演出のアプローチといった「制作法」の部分が、好みではなかったという個人的な感想です。
テーマの志が高かっただけに、アプローチの不一致が勿体なく感じられてしまう、そんな鑑賞後感の残る一本でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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