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【アニメレビュー】「我々は宇宙人」

アニメ

【残酷でリアルな生存競争。それでも生きた先には、ほんの少しの光がある。】

  • 鑑賞日 2026/10/09
  • 公開年 2026
  • 監督 門脇康平
  • 脚本 門脇康平
  • キャスト 坂東龍汰、岡山天音、山﨑天、松井ケムリ、槙木悠人、中込佑玖、鈴木咲、末永陽、佐野岳、大関れいか、佐々木ありさ、エド・はるみ
  • あらすじ 平成の日本の田舎町。自分が“普通”であることに悩む小学3年生の内気な少年・翼は、クラスの人気者で“特別”な存在である暁太郎と出会い親友になる。放課後の無邪気な時間を共有するふたりだったが、次第に日常は歪み始め、暁太郎はクラスで浮いた存在となって噂や視線に晒されるようになる。翼はその変化に気づきながらも何も言えず距離を置いてしまい、やがて起きた取り返しのつかない事件を機に関係は決裂。それから30年の時を経て、ふたりの人生と記憶が再び交錯していく。
  • ジャンル 日本アニメ,ドラマ,ヒューマン,考えさせられる
  • 鑑賞媒体 映画館
  • お気に入り ◎(×、△、〇、◎の四段階)

感想

アニメ映画『我々は宇宙人』を鑑賞。まず一番の感想として、ロトスコープという技法と子どもの動きがこんなにも相性抜群なのか、と驚かされました。

【物語のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。】

これまで『惡の華』や『ひゃくえむ。』などでもロトスコープの進化に驚きましたが、あれらはあくまで大人の動きです。それなりに法則性があり、セル画や3DCGでも再現可能なアクションと言えますし、「生々しさ」や「実存感」は評価されてきましたが、大人の身体の動きには骨格や筋力の法則性があるため、どうしても実写トレース特有の重さや少し硬い質感(いわゆる不気味の谷に近い違和感)が際立つこともありました。

しかしながら今作は、子ども独特の関節が柔らかいクネクネした予測不能な走り方や、大人の物理法則から少し外れたような、重力を無視したあの世代特有の浮遊感を見事にアニメーションへと落とし込んでいました。正直、このレベルの子どものみずみずしい動きは宮崎駿監督にしか描けないと思っていましたが、ロトスコープを使えばこれほどまでに自然にトレースできるのかと感動です。

セル画、3DCG、モーションキャプチャ、ストップモーションアニメーションと、そのどれとも違うロトスコープには、まだまだこんなにも表現の幅があるのかと嬉しくなりました。

光と闇を可視化するロトスコープの暴力性

ロトスコープの圧倒的なメリットは、実写さながらのものすごい実存感を表現しつつ、アニメーションのフィクションも織り交ぜられるという相反する表現を同時に描ける点にあります。反対にデメリットとして、アニメーション一番の武器である現実離れした動きを描けない事かなと思うのですが、今作においてそのデメリットは一切作用しませんでした。

大人から見れば子どもの日常の仕草そのものが十分現実離れした愛おしい挙動だからこそ、実写トレースの制約がそのままアニメーションの魅力へ直結していたと思うのです。

そして、子どもの弾けるようなみずみずしい動きという光の面だけでなく、限りなく残酷な闇の動きを描き出すのにも、この技法はものすごく効果的に作用していました。「そこまで悪気はなかった」行動がどれほどの負荷を相手にかけ、そのしっぺ返しが何十年後にどれだけ増幅して返ってくるのか。とことん突き詰めたリアルな背景と動きによって、子どもが学校という世界で生き抜く困難さを鋭く突き刺してきたのです。

誰にも覚えがあるであろう、小学校というサバイバル空間

思い返せば、僕自身の子供時代も綱渡りの連続だった気がします。小学一年生から五年生まではアルゼンチンで過ごしましたが、とにかく周りは全員メッシの様なフィジカルお化けです。サッカーもバスケも体育の授業もまるで歯が立ちません。情けない話ですが、日本から持ってきたファミコンや『キャプテン翼』のVHSビデオを駆使し、スネ夫さながらの立ち回りでギリギリヒエラルキーを守っていました。

翻って小学五年生以降は日本へ舞台が移ります。幸いフィジカルに関しては真ん中位のポジションを取れたものの、今度は圧倒的な学力不足が襲いかかってきました。アルゼンチンではやっとこさ九九を習い終えたレベルの子が、日本に転校した途端「二等辺三角形の面積を求めよ」と言われる訳です。暗算もろくに出来ない状態の学力でそれはそれは苦労しましたが、担任の先生の熱心なご指導や父親の家庭学習でなんとか追いつく事ができました。

安堵も束の間、今度は南国アルゼンチンで過ごした身体にとって日本の冬は急激な変化過ぎました。よりによって転校した小学校は素足で過ごさせる校風だったため尚更こたえ、しょっちゅう風邪を引き、咳ばかりしてしまいます。そうすると、ある日から僕の机や文房具に触るとバイ菌が伝染るという風潮が広がり、虐めコースまっしぐらの一番危険なポジションに陥ってしまったのです。

これが自然沈下した理由の記憶は朧げですが、両親と家という絶対安全圏が存在した事、超個人主義のアルゼンチンで育った自己肯定感の高さ、などがあったかと思います。よくない事ですが、「バイ菌って言うお前らがバイ菌じゃ!」と言い返した記憶もあります。これもSNSが普及する今なら、そうした個人の反撃も集団から一気呵成に何百倍となって返ってくる事でしょう。

その後、中学も高校も、一歩間違えれば一気にイジメられる立場になってしまうギリギリの出来事は何度かありました。それらを回避できたのは「たまたま運が良かった」としか思えません。それは僕に限らず、全ての子どもがぶち当たる壁。それくらい学校という社会は、過酷で苛烈なヒエラルキー競争の場なのです。学校という閉鎖空間の残酷さは、悪意そのものというより「異質なものを自動的に排除・格付けしようとする集団力学」にあると思います。

自分は誰かにとっての加害者、あるいは無自覚な傍観者。

今作の暁太郎も、小学校低学年では足も速く絵も上手い人気者だったのに、一瞬の判断ミスで一気にヒエラルキー最下層に転落してしまいます。そしてその傷が自己肯定感を突き下げ、大人になってもいつまでも彼に付きまといます。

僕が危機を回避した事で、暁太郎の様に、代わりに順位が下がってしまった同級生が必ずいたハズです。残酷にも翼と同様、僕自身もそれが誰だったのか、その子がどうなったのか記憶にありません。僕の無意識な行動や言葉が、暁太郎と同じく今も誰かの心に突き刺さったままかもしれない。ある日僕にもそのしっぺ返しが来るかもしれない、そんな底知れない恐怖に襲われました。この映画が真に牙を剥くのは、まさにこの瞬間です。

自分が生き延びるために必死で掴んだロープのせいで、誰かの手が離れてしまったかもしれない。しかも、生き残った側はその誰かの顔を忘れてしまっているという二重の残酷さ。この居心地の悪さと「底知れない恐怖」から目を逸らさずに物語にできたこと自体が、この映画の最も深いテーマだと思いました。

この映画をみて恐怖に駆られない人は、よほどの聖人君子なのでしょう。僕はずっと怖くて仕方ありませんでした。

コミュニケーション能力への移行とヒエラルキーの逆転

この映画の残酷かつリアルな所は、わかりやすい悲劇を描かなかった点です。例えば暁太郎が家庭で虐待を受けていたり、貧困が原因で虐められたりするような背景を用意していません。何度か同じ服を着て、ふすまがボロボロであり、平均家庭よりお金がなさそうな描写はありますが、妹とは仲がよく祖母からも愛されています。

恵まれない家庭環境からのいじめ発生、ではなく、「だーれだ」の目の隠し方が少し強かったり、パーソナルスペースの距離感を少し誤ったりと、誰でも持っている特性がきっかけに集団から弾かれてしまうのです。これが本当に恐ろしいし、対処のしようがない。この恐怖はSNS時代の今、間違いなく倍加している事でしょう。

さらに掘り下げると、翼と暁太郎のヒエラルキーの差には、水面下で家庭の教育方針が大きく関わっていました。小学校低学年までは暁太郎の「足が速い」「絵が上手い」といった、生来の才能で人気の立ち位置を得ます。対して翼は大した特技もなく目立たない存在でした。この段階では暁太郎の他人との距離の取り方もマイナスにならず、逆に積極的にクラスから浮いている子に話しかけるといった、優しい側面として働きます。

これが逆転するのは小学校高学年に入る頃です。翼の母親は、偏差値を高めないとゲームを勝手に売ってしまうほどに勉強を押し付けます。暁太郎の家庭にはそうした描写はなく、伸び伸びと育っています。ですが、高学年でヒエラルキー上位者に必要なのは足の速さではなく、「学力の高さ」と「空気を読むコミュニケーション能力」でした。ここで、クラスに必要とされるスキルが微妙に変化した事へ気づけない暁太郎と、不本意ながらも学力を伸ばす翼との間に力の逆転劇が起きます。

ですが、翼の母親の教育方針が正しかったのかと言うとそう単純なものではなく、ゲームも満足に出来ない翼の不満とストレスは歪な形で暁太郎へぶつけられ、2人の確執を決定的なものにしてしまいます。当の母親はそんな事が両者に起きているとは知らず、自身の教育方法が他者へ加害を発生させてるとは夢にも思いません。

更にはその教育強制も虚しく、翼は中学で喫煙しヤンキー達とつるみ、仲間内でいじめも行います。高校も授業中に大半が居眠りしているのを観る限り、そこまで偏差値の高い学校ではない様子です。であればそのまま翼の人生が転落したかと言うと、それなりの大学へ行き、それなりに就職し、彼女と同棲をしています。暁太郎の人生と比べると天と地の差がある事から、結果的に母親の勉強の押し付けは正しかったのかもしれません。

絶望の淵に射し込む微かな希望

ただ、それはあくまで僕たちが観た「現時点」までの話。この映画の感動的な所は、2人のその先まで描いた点です。途中何度も人生の底を這いずり回る暁太郎が、社会に復讐する凶悪犯(いわゆる無敵の人)として凶行を行いかけたり、初恋の小夏をストーカーしかけたりと、最後の決断をしかける分岐点を何度も描きます。実際それでお話を終わらせても良かったハズです。それも紛れもない現実であり、その様な悲しい事件も実際に起きている事から、暁太郎が凶悪犯罪を犯して終わる展開も、問題提起として一定の説得力を持ちます。

ですが監督はそうはせず、「それでも生きた先は捨てたもんじゃないはずだ」という希望を描いてくれるのです。何度も最後の取り返しのつかない選択をしそうになる暁太郎が、翼とぶつかり合い本当の事を知った結果、傷を抱えながらもタクシーの運転手として生活を安定させます。それを支えたのは、かつて小学校の頃に自分が話し掛けていた、クラスから浮いている同級生の牛沼でした。

この因果の着地がものすごく残酷で、でも救われる。

映画という祈りがもたらす救済

『ルックバック』にせよ、『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』にせよ、映画が持つ一つの大きな要素として、「絶望の淵にいる人を救う」という力があると思っております。

どうしようもなく絶望して凶行に及びかけた時、この映画が、一瞬でもその手を止めるかもしれない。今作の暁太郎と同じく全てに絶望して生きる意味を失ったとしても、生きたその先には、ほんの少しの希望があるかもしれない。かつての友と「じゃーねー!」と言い合える日が来るかもしれないのです。

ただのセンセーショナルな復讐話で終わらせるのではなく、暁太郎の様な人間に寄り添い希望を与える。そんな作り方をした今作には、とても誠意を感じました。


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